ふくふくと小さくなりゆくベビーバスわたしのことは忘れてもいい

小原和「白木蓮」(「ヘペレの会活動報告書」vol.1:2018年)


 

この歌は見た目と逆のことを言っているのではないか、という印象がどこかぬぐえない。一見、「わたしの成長」についての歌である。ベビーバスが小さくなるのは、大人になってから訪れる小学校が小さくなっているのと同じで、入れるものが大きくなることによって相対的に小さくなったように感じるということだ。わたしが大きくなった。だからベビーバスは小さくなる。
しかし、この上句はどこか変だ。いちばん奇妙なのは「ふくふくと」というやわらかさや膨張をイメージさせる擬態語と「小さくなりゆく」のそぐわなさである。意味的にはそぐわないものの、どちらも「赤ちゃん」には親しいという共通項によってイメージとしてはまとまりがある。この部分のずれによって「ふくふくと」が二句目をまたいで「ベビー」と反応するとき、ベビーバスが「大きくなりゆく」「育ってゆく」ようでもあり、あるいはベビーバス卒業生であるはずの「わたし」が「ふくふくとした小さなベビー」に退行していくような印象も抱かせる。
どこか見た目と逆だ、と感じるのは下句も同様で、ベビーバスへの呼びかけと思われる「わたしのことは忘れてもいい」の「も」という選択肢の示しかたに引っかかる。忘れてもいい。忘れなくてもいい。ここには前提に「今の今までわたしのことは忘れていない」という確信がある。この下句の言外にあるのは、「わたしのことは忘れるな」ではなく「わたしのことを忘れないだろう」だ。「わたし」の側はたぶん普段はベビーバスのことなんて忘れているくせに。

 

連作の一首前に置かれた歌〈厳しかりし父が姉の子あやしおり缶ビールひとつ取り出して飲む〉を視野に入れながら読むと、掲出歌にももう少し具体的な肉付けができる。かつて自分が使っていたベビーバスが「姉の子」に譲られた、という状況を想像することができるし、下句は父への呼びかけとも読める。そう読むとちょっとひやりとするけれど、それでもこの下句にはやはり「忘れないで」の悲痛な逆説ではなく、なにか淡々とした余裕を感じる。
この歌の背後には、「赤ちゃん」という地位が次世代に更新されることと、「わたし」個人の更新はまったく別々のことだ、という感覚があるように思う。その更新に「わたし」のアーカイブは干渉されない、という自信、自負のようなもの。その別々のふたつの要素がひとつのベビーバスに絡むことによって引き起こされる不思議な遡行感が一首のおもしろさでもあり、表れ方は淡いけれど、「姉の子」への祝福なのだと思う。

 

マグカップに湯注ぎ生まれ出ずる茄子悲しみに似る真夜の空腹/小原和
指先にポテトチップス匂いたるわたしを軋むほど抱いてみろ
青空に手を伸べて咲く白木蓮わたしの全てはわたしのものだ

同じ連作から何首か。全体的に「わたし」についての力みに満ちた一連で、それが頼もしいエンジンになっているように感じられた。生まれ出ずる茄子って。有島武郎みたいだけど、それ単なるフリーズドライだよね?