白梅の輪郭だけを光らせて夜の微雨去れり 悪の限りを

藪内亮輔「暴力性の虜囚」(角川「短歌」2018年9月号)

 


 

「悪の限りを」という結句が悪の限りを尽くしている、と思った。

 

8月29日の平岡さんの藪内評に引きずられているのかもしれないけれど、でもこの白梅がまとう光はやはりレントゲン写真のあの感じをイメージしてもよいものだと思う。「偽レントゲン技師」たる藪内は、だからこそここではその力をもって「白梅は内側から光っているのではない」ということを見抜いてしまったのだ、と言いたくなる。内側を透かし見てしまう力が、その光はあくまでも微かに降る雨による表層のもの、外側のものであって、白梅そのものは依然として夜において暗いままであることを看破した。

 

そして雨は、白梅以外のものを光らせることもなかった。

 

その光はあくまで「微雨」によるもの。しかしその雨も去ってしまった。白梅の輪郭はそのあとも光を保っているのだろうか。保っていたとして、雨がやんでしまった以上、その光もきっと長くはつづかないだろう。白梅そのものは雨の前後でその色も姿も変えていない。ただ雨によって、雨によってのみ、あえかな光を放った。輪郭「だけ」が光る。雨のなすがままになって、光を放つ。ごく表面的な、表層のみの光。雨はそこだけを光らせた。内側も、白梅以外も光らせなかった。それだけをして、やんでしまった。

 

この白梅の描写は実景としてももちろん読めるけれども、どちらかと言えばやはり観念的なもので、特に「悪の限りを」の結句と相まって、なんらかの象徴性を帯びているように感じられる。

 

肝心のその「悪の限りを」なのだが、この「を」が、いかにも短歌らしい「を」ではあるものの、だからこそというか、読むのが本当にむずかしい。文法的にはいくつかの可能性が考えられるが、確定はできない。四句目までと同じ位相にあるのか、それともここだけ主体の内言、つぶやきとなっているのか。「を」のあとに何かしらの省略があるのか、あるとしたらそれはどんな語か。あるいは、かなり無理のある読みだと思うが、「悪の限りを去る」ということで、「悪の限り」という現象から「微雨」が去って行ったということだろうか。それとも、「悪の限りをしやがって」というような、雨に対してのつぶやきのようなものか(その場合、つまり内言だ)。

 

僕自身は「悪の限りを尽くそう」と決心したかのような人物をまずこの結句に読んだ。内実を置き去りにしてその表層を光らせるだけ光らせ、そして去ってしまう雨。そのような身勝手な行ないをする雨を「悪」とし、その「悪」に励まされるように自分も「悪」へと走る、というようなイメージ。しかし、四句目までとの関係を確定させるはずの、だからこそ逆にその不確定性を際立たせ四句目までとの関係を拒むかのようなこの「を」を前に、それはあまりにも理屈に頼り過ぎた読みであるようにも思う。そもそも「内実を置き去りにする」という解釈も、輪郭「だけ」というところを拡大して読み過ぎている気がする。

 

確定できないなにかを歌のなかに見たとき、それでもどうにかしてなんらかの解釈をそこに施そうとし、しかもそれを発見してしまったとき、読者はわがままに、その「発見」を正当化するための証拠を歌のなかに捏造することがある。あるいは、その「発見」に不都合なものを見なかったことにする場合がある。「見なかったことにする」を無意識のうちにしていることさえある。一語一語はただそこで語同士の関係を示しているだけなのに、語同士のその関係をさえ読者の内面に奉仕させてしまう、というか。語同士の関係から解釈する、のではなくて。

 

脱線した。ひとつだけ確かなのは、ここでの「光」はついに希望や救済を象徴するようなものではあり得ないということ。四句目までにおいてたとえ希望や救済を象徴していたとしても、「悪の限りを」という、四句目までとの関連も一首における位相もさまざまな可能性をはらみながら、それゆえにそこで半ば浮き上がったように存在感を示すそれが、その曖昧さゆえに「悪の限り」ということの意味を際立たせ、それによって一首を覆ってしまうように思う。「光」が光であることを奪われてしまう。

 

そして初句に置かれた「白梅」は、語法においても内容においても求心力をもった「悪の限りを」という措辞によってついに存在感を失い、輪郭の光だけをそこに残す。「悪の限りを」という措辞がもたらす読みのプロセス自体に「悪」を感じ取る、というのはやはり恣意的に過ぎる読みなのだけれども。

 

そもそも「悪」とは何なのか。