いっこうにかまわない土地をとられてもその土地に虫がねむっていても

望月裕二郎『あそこ』(書肆侃侃房:2013年)


 

世の中には月の土地を販売する会社がある。月の土地は格安で、数千円で買えるらしい。これは、法律を逆手にとったジョークようなもので、宇宙のものには法律上の所有者がいないことが抜け穴になっているらしい。ロマンティックなプレゼントとして人気だとかなんとか聞いたことがあるけれど、わたしはあまりおもしろい冗談じゃないような気がする。持ち主がいないからって勝手に売っていいものでもないのでは、という抵抗感と、宇宙をなんだと思ってるんだ、という謎の義憤と、しかもいずれ人類が月や火星の土地を利用しはじめる日がきたら、今までに売られた月の土地の権利はそれなりのトラブルの元になるのでは、という不安などが先に立ってとてもロマンティックな気分になれない。そして、そのコンセプトに座りの悪さを感じるいちばんの理由は、地球の土地だってそもそもは誰のものでもなかったんだよな、ということを思いださせられるからだと思う。土地を分割したり所有したりやり取りすることが国を成立させ、政治や経済の基盤になってきた、なりつづけるであろうことの不思議さを「月の土地販売会社」は刺激してくる。
掲出歌を読んでその会社のことを連想するのは、土地の処遇を勝手に決めてしまうという共通点からだけでなく、なぜかそれぞれ言葉について考えさせられるからだ。人は言葉を所有できない。言葉を使うことはできても、その言葉を自分の支配下に置くことはできない。そういった意味で、言葉は月の土地のようなものかもしれないし、そのエア売買は横行しているといえるかもしれない。

 

掲出歌の鷹揚な「とられてもかまわない」という宣言には、帰属意識の肥大化がコミカルに描かれているように思う。帰属先の所有物が自分個人の裁量下にあるような錯覚を抱いてしまう現象。あるいは陣取りゲームのようにある特定の条件のもとで仮想的に土地を所有していることになっているのかもしれないし、あるいは作者が現実社会で地主なのかもしれないけれど、ここまでくるとそれらの可能性にどれほどの違いがあるだろう。土地はもともとは誰のものでもなく、そして、この歌はその土地で儲けを出そうとしていない。
「いっこうにかまわない」と「わざわざ」発語される場合、その文意は反語的に「とてもかまう」であることが多いけれど、掲出歌の上句にはそういった反語的なニュアンスはないように思うのは、下句の「虫」というチョイスにある迫真を感じるからだろうか。たいていの土地にたぶんなんらかの虫は眠っているだろう。「埋蔵金がねむっていても」とかとはわけが違う、起こりうる可能性が高い度合いに仮定のレベルを合わせてくる。代わりにこの歌は一首全体である反語を形成していると思う。所持してもいないものを手放してみせることで、所持することの不可能性を透かし見せる。とられてもかまわない。持っていないのだから。土地を持っていないことと、土地をとられてもかまわないことは、レトリックの上では両立する。言葉の所有できなさは、手放してみせることでしか示せないのではないだろうか。
なんにせよ言うのはタダだ。言うだけなら、自宅に幕府をひらくこともできるし、身体に玉川上水を流すこともできる。掲出歌は、言うのがタダであることのおそろしさを知っている作者の、言うのはタダだからこその放言である。