染野太朗


蜥蜴の尾あをくきらめくきざしくる生への意志は信じがたくも

吉田隼人「青の時代」(「うた新聞」2018年9月号)

 


 

「青の時代」は5首からなる。ピカソのそれを意識すべきか、あるいは三島由紀夫の小説か。それ以外にも、この5首において踏まえるべき「青の時代」が、あるいはここにはあるかもしれない。

 

今日の一首、語法や音の構成によって、じっと眺めていると眩暈のような体感を得る。どの一語も、配された各句においてのみで役割を終えることなく、一首の全体にふかく根を張っている。

 

トカゲのいくつかの種類では、幼体の尻尾は青いらしい(成体にもまれにあるとか)。襲われたときのために、胴体(本体、というか)と切り離せる尾を目立たせている、ということのようだ(が、このあたりはもちろん僕も詳しくないです)。

 

まずは「蜥蜴の尾あをくきらめく」で一度切って読んでみる。「自分にきざしてくる生への意志、生きようという意志、それは信じがたいようなものなのだが、一方でいま目の前にうごく蜥蜴の青い尻尾は、ぬめぬめと輝いて生のきらめきを放っているのだ」ということだろうか。このひとつ前に、

 

灯ともさぬ室にわが死をただみつむ翅あをくして宵に飛ぶ死を

 

があり、また「青の時代」というタイトルの(表層的な)イメージに引っ張られると、今日の一首をどこか希死念慮の歌のように錯覚してしまいそうにもなるのだが、そうではないはず。

 

いろいろと説明を端折るけれども、語法上、「きざしくる」は「生への意志」に係る連体形である可能性が高く、「きらめく」は終止形で、まず「蜥蜴の尾」の状態を示す。しかし一方でこの「きらめく」は連体形としても機能して「生」あるいは「生への意志」に係るように見えるから、「生」「生への意志」はその時点で輝きを得る。トカゲの尾は切り離せる。切り離されたあともしばらく動く。その、胴体のほうを生かすために切り離されてしかもそれでもなお動く、というしぶといようなありようは、「生への意志」ということを容易にみちびくが、一方でそのイメージはぬめぬめとしていて薄気味悪い。つまりここに配された「生」もそれへの意志も、きらめきと薄気味悪さを同時に抱え込んでおり、良し悪しや善悪といった安易な二元論を寄せ付けない。光と影を同時に抱え、息苦しいような躍動感とともに提示されている。それから、尻尾だけが動いているさまは、「信じがたい」という驚きとも重なる。これは、自分に(おそらく不意に)きざした「生きようという意志」にみずから驚いている、ということだと思う。また、ここでの「青さ」は、自身の生の、あるいはそれへの意志の拙さや幼さを象徴してもいようか。

 

音の話をすこし。意味的に「きらめく」で一度切れたとしても、頭韻・脚韻や類音によって「きらめく」と「きざしくる」は隣り合い、溶け合い、つまり音の構成によってその二語の意味上の切れ目はぼかされてしまう。さらに言えば「あをく/きらめく/きざしくる」の三・四・五音という音の連なりも、その規則性と調子の良さから、その三語の連なりが動かしがたい必然のものであるかのような印象を与え、やはり「きらめく」と「きざしくる」のつながりを強め、意味上の切れ目をぼんやりとさせる。そしてさらに言えば、三・四・五音のそのクレッシェンドするような調子の高まりは、「生への意志」ということを内容面で盛り上げ、その盛り上がりによって「信じがたい」というほどの驚きに説得力が与えられると思う。

 

だいぶややこしくなった。まだ説明すべきものがあるはずだがここで措く。今日の一首、統語の仕組みと音の構成が手を結ぶことによって、「韻律が心地よい」とか「リズムがよい」とかいった次元を超えて、一首の景や情を立体的にしていると思うのだ。付属語や活用形のあしらいの単独では、あるいは、音の工夫の単独では、そのようにはならない。まさに短歌という定型の空間においてこそ機能する、語同士の連携を見る。音という、(基本的には)身体的な時間軸に沿ってしか現れ得ない(トカゲ、は一語だが、ト→カ→ゲという音の順番があってこそ意味を明らかにするのであり、その順番というのはまさに時間的なものだ。身体はトとカとゲを同時に発音することができないし、同時に発音してしまっては意味を成さないということ。言語はその根本において、時間の影響を受けているのである)、つまり機能し得ない言葉が、そしてその連なりが、短歌という器だからこそ、その時間軸を解体して迫ってくる。「あをく」は「蜥蜴の尾」を形容しながら、「生への意志」の色をもあざやかにし、「信じがた」さは「蜥蜴の尾」そのものの印象へも影響する。「きざしくる」が三句にあるゆえ、57577のリズムの要請上そこで一度切れそうになりながら(終止形であるように見せながら)、つまり青いきらめきがきざしてくる印象を提示しながら、それはすみやかに生への意志へと変換される(連体形であることによる)。「く」の音が一首にどことなく息苦しいようなアクセントを与えながら、一首に、ふしぎな統一感とリズムを生み出す。……とにかくまだあるのだが、このへんで終えます。吉田隼人の歌は手ごわい。あらゆる文学・哲学・芸術分野からの引用、ということにとどまらず、古典和歌から連なる短歌の、日本語における語法や韻律の蓄積が、その歌のなかでちらちらと、いつも顔をのぞかせている。

 

生きるということは輝かしく、しかもついに苦しいことなのだ、というなんともオーソドックスな感慨が、身体レベルで、読者をあざやかに支配していく。