水族館(アカリウム)にタカアシガニを見てゐしはいつか誰かの子を生む器(うつは)

坂井修一『ラビュリントスの日々』(砂子屋書房:1986年)


 

だいたいタカアシガニという生き物がまずかなり不気味なのだ。世界最大のカニ。大きいだけでなく、名前の通り脚が長い。なぜあんなに長くする必要があったのかわからない。食べもの、それも高級な食材としてなじみの深いカニは、食用じゃない文脈の場所で出会うだけでちょっとこわい感じがするのは、ふだん食べている負い目があるせいかもしれない。それでも一般的によく食べられる種類に対しては、こちらが捕食者だぞ、という睨みをきかせられても、形状が違うとそのマウンティングすら効かない感じ。カニの不気味さの前提には甲殻類の得体の知れなさというのもあって、骨がないという身体の状態が脊椎動物基準で想像するとまず悪夢的な上に、だからって表面を固い殻で覆ってしまおうという発想が、あまりに過激で、しかもあまりに脆い。
掲出歌の人間(たぶん)に対する「器」という非人道的な把握には、こういったカニのイメージが多分に反映されていて、たとえば「器」はダイレクトにカニの体の構造、肉や内臓を器のように覆う殻からの連想だといえるだろう。ヒトのシルエットをした、人ならざる者が描かれているようだ。

 

たんたんとした一首のなかで、三句目の「見てゐしは」がつよい。タカアシカニは器(仮)にみられていて、器は歌の視点人物にみられている。その一方通行の視線の屈折を意識するとき、その延長線上には、読者にみられる歌、という3Dの線も結ばれる。その折れ曲がり方はカニの脚のようだともいえるし、視線のリレーが最終的にはタカアシガニにたどりつくことを思えば、この屈折がカニの脚のうちの一本をなぞっていると幻視してもいいのかもしれない。水族館の水が多い印象は、水中の光の屈折も連想させる。その屈折の向こうからお伽話のように聞こえてくる「いつか誰かの」は、曲がり角をなんども曲がってきた伝承にふさわしいあやふやさを持っているけれど、これは不思議なフレーズである。「いつか」は時期こそ定めないものの、それが起こることは断定している。そして、「誰かの子」とは「自分の子」ではないということだろうか。どちらも特定の人間が「子を生む」可能性を指摘する表現としては遠く離れすぎていて、「器」と相まっていよいよ「寄生」とか「宿り木」とかのキーワードが頭をよぎる。
「生む」は「水族館」から導かれた動詞である。水生生物たちの生態を断面的に展示する場所である水族館の、その生態には当然生殖も含まれるという意味での連想でもあり、また、「アカリウム」の「ウム」を音の上で引き継いで、二重に初句と響き合う。「水族館」から「生む(器)」へのリンクによって、水槽や、あるいは水族館自体が「器」的なものであることを思い出す。ここには水族館の内側を歩いているうちに水槽を隔てた生き物と未分化になっていく感覚が、主観的にでなく外側から描かれているように思う。
掲出歌の「誰かの」には青白い炎を感じる。それは、情欲や嫉妬のようなものではなく、間接的に「誰か」の上にしか動物とヒトを混同できない自らの怜悧さへの屈託なのだと思う。