染野太朗


プラスチックストロー廃止のニュースありスタバが世界を牽きゆくように

浜名理香「雨水溝清掃一ヶ月」(「うた新聞」2018年9月号)

 


 

「雨水溝清掃一ヶ月」は15首からなる。

 

草むらのかたちおのずと調いぬざんざん伐りにしたベロペロネ
自転車を止めて声かける人のありおどろが枝を鋸びくわれに
なるほどねぇ真っ赤な海老がちっくりと撥ねた花だよ小海老草だよ
雨水溝の汚泥ぶ厚く火ばさみが引き出すレジ袋またもレジ袋
スコップが土ごと切った太蚯蚓死んだ身体は泥を弾かず
てのひらが油すっぱい臭いするゴム厚手袋ぎゅいと外せば

※二首目「おどろ」に傍点あり

 

連作から一部を引いた。連作のタイトルが簡潔に内容を示している。体を使ったその作業の様子が五感をとおして、厚みと弾力のある韻律のもとで描かれる。というか、そのような韻律だからこそ、読みながら五感ということをつよく意識してしまう。五感を刺激される。生き生きと、というふうに表現するのにこれほどふさわしい連作もめったにないだろうな、と思う。

 

どの一首もタイトルの示すものから離れずに詠まれていると思うのだが、今日の一首だけはちょっとちがう。上に挙げた「雨水溝の」の歌の直後に置かれている。だから、「レジ袋」がいくつも捨てられていてそれを取り除く作業をしながら連想された歌、として読める。「ように」でなく単に「スタバが世界を牽きゆく」だったら、それはスタバを讃える歌にもなり得るのだけれど、「ように」とされるだけで途端に事情が変わる。「ように」というのは実は、なかなか解釈を確定しにくい場合があって、今回もむずかしいのだが、「環境保全において(スタバが世界を牽引するとは思えないけれど)まるでスタバが世界の牽引者であるかのように(そういう印象を伴って)、スタバがプラスチックストローを廃止するというニュースが流れている」というふうに読めるだろうとは思う。(この「ように」は、「ために」という目的を表すものとして読むのではないだろう。)皮肉が込められていそうだ。もしかしたら、結局スタバのような大企業、ちょっとオシャレ(という語もなんだかこう書くと死語の感じがあって、でもそれとわかって書きますが)でイメージのよい企業によってしか、それに頼ることでしか、環境について考えたりそれへの取り組みをしたりできないんだね、という僕たちへの皮肉が隠れているのかもしれない。……このように読めば、この一首に批評の力はまぎれもない。

 

しかし、である。しかし、社会詠のむずかしさを痛感する。この一首の良し悪しを言っているのではとりあえずない。そのように読む読み手の話である。自分は「スタバ」の何を知っているのだろう、と思う。僕はここにただちに皮肉を読んだし、そのように読んでよいとも思うのだが、ただ、プラスチックストローの廃止、という取り組みがどれだけ素晴らしいものであっても、それがスタバによるものであるという理由だけで、単なる企業アピール、利潤追求の方途、に見えてしまうこともあるんじゃないかと思うし、また、スタバの、プラスチックストローにまつわる以外のあり方を、自分はどれだけ知っているだろうか、相対化できているだろうか、とも思う。「スタバが世界を牽きゆくように」に皮肉を読むのはたやすいのだけれど、そして日本や世界の(経済や環境の)ありようを知ったように語ることはできるけれど、そこに皮肉を読んだ瞬間にこぼれ落ちてしまうものは、きっと大きい。

 

読者はあるいは、「修辞」の読解をとおして(「内容」の読解、ではない)、歌以前に何かを知っていた気にも、歌によって何かを理解した気にも、何かを克服した気にもなってしまう。べつにこの歌における「プラスチックストロー」あるいはエコ(これもまた軽薄な語になった。〈環境〉もそう言えばうさんくさい語になってしまった)全般の話に限ったことではない。ある歌を読む前の段階で、これから出会うその歌の読みを決定し、固定してしまうものがある。そもそも、今日の一首に「ように」という語が無かったとしても、そこに皮肉を読むことは可能なのだ。