平岡直子


見ゆるもの見ゆるまま描け目から手はぢれったく月のごとく遠かり

笹谷潤子『夢宮』(砂子屋書房:2013年)


 

「鉛筆」と題された短い連作に収められた一首。連作を参照すると、おそらくは美大生、もしくは美大受験生の子どもがデッサンに白熱する様子を見守る歌なのだけど、そういった背景を踏まえずとも、「見えるものを見えるままに描け」という簡潔なスローガンと、それが意外と難しいことである不如意さは多くの人にとって馴染みのないものではないだろう。たとえば図工の、美術の、国語の授業でそういうことを言われたな、という記憶のある人のほか、作歌信条にしている人もいるのではないだろうか。このスローガンは無理難題を吹っかけているわけではなく、むしろハードルを下げ、描き手の自由を保障する親切な許可のような表情をしているけれど、実際のところは難易度の高い要求である。見えたものの思い通りの再現にはなによりも技術が必要だ。気楽に発されると、精神論で技術を凌駕せよ、という無茶ぶりをされているような気がしてくる。
掲出歌はその難しさをよく知っているようで、高らかに置かれる上句の命令を下句がさっそく裏切り、その不可能性を言っている。目で見て手が描くものの「見たまま」にならなさ、インプットとアウトプットが一致しないもどかしさを距離にたとえ、その距離を具体的に地球と月の遠さにたとえていると読めるだろう。月が地球の衛星である以上、手は手なりになにか連動はしているのだろうけれど。
この下句は「目と手」と対応関係にある「地球と月」の片方の地球が省略されていることによるアンバランスさが抜群におもしろく、その省略によって比喩上の地球と、歌の主人公がいるであろう地球が兼用になってしまうような印象がある。たとえ話が変形して体感を持つ。つまり、目と手の関係は置き去りにして、そのすべてを含む身体が置かれている地球を起点にして「ぢれったく」で急上昇して月にタッチしてまた帰ってくるような感じがするのだ。韻律上もこの部分に見せ場があり、せわしないながら意外と定型を刻んできた三句目までに対して、四句目の「ぢれったく」の長さ、そしてわずか一音の字余りが官能的なふくらみを演出する。ここだけ重力が変わるかのような変調も月に手を届かせる。
そして、月に触れて帰ってくる、月は一首のなかの経由地、というイメージを流用すると、目と手の経由地として本来は脳があることが浮かびあがる。目と手のあいだの脳が省略されているのもなんだか不自然ではないか、ということが、月と脳の形状の近さによって思い出されてしまう。そもそもわたしたちはこの歌を読むとき、初めからほんとうは月のイメージに脳を重ねていたのではないか。
話が奇妙にずれていく。その地球はこの地球へとずれ、手をたとえていたはずのものが脳にみえはじめる。そして、この横すべりこそが、「見えるものを見えるままに描」こうとしたときにすべり落ちていくものを表しているようにも思えるのだった。

 

 

歌集からいい歌をもう何首か。

信西の首刎ぬる絵を見しのちの青もみぢ濃き坂を下りぬ
くちなはの模様のごときくつしたを子らは好めり部屋よぎりたり
不可思議なかたちの服を脱ぎすてて風呂場の姉妹舌鋒は冴え
手品師が咲かせるやうな花ばかりわが庭は長雨に打たれて

身のめぐりのものはすこしずつ得体が知れず、すこしずつ意のままにならない。そういったものを歌のなかに手懐けようとするときに、手に返ってくる反動のほうにつねに花を持たせようとする修辞が印象的だったし、それは短歌にとても合っていることなのではないかと思った。