染野太朗


首すこしのびた気がする光降る秋をむかえに公園に行く

黒﨑聡美『つららと雉』(六花書林、2018年)

 


 

上の句+下の句(今回の場合、上二句+下三句だが)という構成もここではとてもわかりやすい。首がすこし伸びた気がして、それによって「あ、きっと秋が来たんだ」と直感し、その秋の公園に行こうと思った、ということだろうと思う。「気がする光降る」における「する」+「降る」の、大きな脚韻を中心にしたかろやかでおだやかな音の流れが、降ってくる「光」を妨げない。その「光」に、ごく自然なかたちで、公園という空間が与えられる。「する」「降る」のル(ウ)の音が「行く」のク(ウ)の音と響き合う。具体と抽象が溶け合ったような公園が見えてくる。統語や語法に屈折がなく、(あるいは夏が終わって)ふと感じる秋のあのすがすがしさがすっとこちらに手渡される。

 

でも実は、厳密には、この一首に秋は登場していない。それがまずこの歌のおもしろいところ。ここにあるのは「首すこしのびた気がする」という体の感覚だけだ。体の感覚が先んじて秋(の訪れ)を感じ、それを体感しに行こうと公園に行く。体の感覚が思考に先んじて何かを感じてしまう、というのはべつにオカルトでもなんでもなく誰にも実はありうることだろうし、そのあたりのおもしろさがこの一首にはある。秋はあくまでそのあとに、予感や予兆のようなものとして、一首の背後にあるだけだ……と言って読みを終えることもできそうだけれども、でもまだ終えることができない。そもそも、秋を感じたその直感としての「首すこしのびた気がする」という体の感覚は、誰にでも共感できるものかというとそうではないと思う。すこし体がゆるんだ感じ、すっきりした感じ、等々と翻訳して散文にしてしまえばなんとなくわかった気にもなれるけれど、この体の感覚は、「のびた気がする」と言っているこの本人にしか意味づけできないものであるはず。だから、上に僕は「あ、きっと秋が来たんだ」と直感し、などとわかったふうに書いたけれども、その根拠は実はあまりなくて、下の句から逆算して自分の考えうる読みを示しただけ、ということになる。そしてもう一度言うけれども、秋はまだ登場していない。「むかえに」ということと「行く」という現在形が思いのほか効いていて、これは未来のことを言っていると読めるから、だからつまり秋は、そして光も公園も、まだ登場していない。

 

けれども秋は光をともなって公園に来ているのだと、この歌は、そこに体の感覚を介在させながら、断定している。

 

くりかえすが、この一首に存在するのは、「首すこしのびた」というこの人の体の感覚だけだ。そもそも、首がのびた、という感覚を感じたことがない人だっているはず。感じたことがあったとしても、それが何の結果でありあるいは予感であるのか、僕たちに共通のものとして一般化してとらえることはできない。人によってはたとえば、季節の変化ではなく、歓びとか蒸し暑さとか、なにかべつのものと結びつきやすい感覚かもしれない。首の感覚に限らず、体の感覚とはついにその人個人にしかわからないものだ。にもかかわらずそれが初句でいきなり登場し、下の句と手をつないでいるかのようにそこで輪郭濃く示されている。そして、この人がすでにそこにいるかのような感じをもって光に満ちた秋の公園がそこにあらわれる。この人の首の感覚だけがたしかなものであるはずなのに、その感覚は一首にいつまでも尾を引く一方で、より一般性の高い「光」と「秋」と「公園」に塗り込められ、僕たちは読者としてすがすがしい秋の光を浴びるような感覚を得ることができる。「すこし」という語それ自体のひかえめな感じや上にも述べたような音の構成、すっきりとした統語や語法がやはりそれを支えている。

 

「首すこしのびた気がする」という特殊な感覚とそれへの解釈は、その異質さを保ちながら、「異」であることを「光降る公園」に素直に明け渡す。個の感覚における特殊さと僕たちに共通する(と思われている)季節をめぐる感覚(というか、だからそれは文化装置としての季節)が、目に見える形で溶け合っている。

 

あふれ咲く桜の話がひとびとをゆるくつないでその端に立つ/黒﨑聡美