平岡直子


ひらくもののきれいなまひる 門、手紙、脚などへまた白い手が来る

大森静佳『てのひらを燃やす』(角川書店:2013年)


 

えろくてこわい。これほど人の心を掴む要素はあるだろうか。それもこの歌は露骨にではなく、昼の光、白さ、「美しい」よりは「衛生的である」ほうに寄っているような「きれいな」など、全体的に硬質な清潔さに抑えられて、ほんのりとえろく、ほんのりとこわい。
一首の性的な印象は「脚をひらく」というイメージから、怪しさは「白い手」の断片性と血の気のなさからくる、ということはひとまずいえると思うけれど、そこに至るまでに門、手紙を経由する意味を読んでみたい。
門、手紙、脚、三つのものが出てくる。この三つは登場するより前に「ひらくもの」と定義されていて、それはたしかにそうともいえるかもしれないけれど、すんなりと「ひらく」のは門くらいのもので、まっさらな状態で性質を挙げるとしたら、手紙は届けられるもの、読むもの、脚は立つもの、歩くものだ。あらかじめ与えられたグループ名によってイメージが漂白され、動きが封じられている。意外とコントロールがきつい。
この歌のいちばんのポイントは、いっけん並置のようにならべられるこれら三つの名詞がまったく対等ではないところだと思う。「ひらくもの」というグループには「門、手紙、脚」はいちおうすべて入るけれど、のちに現れる「手」と同じグループなのは「脚」だけだ。さらに、結句の「来る」が仄めかす受け身さによって、「脚」はぐっと「どこかの脚」や「一般的な脚」ではなく「私の脚」に引き寄せられる。それらの印象によって、三つの名詞のなかで脚が優遇される。歌のなかでひらいているのはあくまで脚であり、どこかほかの場所でひらいている門、手紙は脚がひらくイメージを支えるサブの存在である、というように。ぽんぽんと並べられたかのような名詞たちに遠近感があらわれてくる。「来る」という引き寄せかたと、冒頭の「ひらくもの」という突き放した言いかたには齟齬があるし、「門」といういちばん遠いものから連想がはじまるのも不思議だけれど、自意識の奇妙な分布はおそらく大森の歌の特徴のひとつで、「私」としてとらえる範囲が広く、しかし中心に近づくと逆に薄くなる感覚は〈どこか遠くでわたしを濡らしていた雨がこの世へ移りこの世を濡らす〉などの歌にも共通するだろうか。
一首のほんのりこわい印象は、単純に「白い手」の効果というよりもこの遠近感に拠るようにも思う。これは徐々に近づいてくるもののこわさだ。それも近づき方に規則性がなく、ランダムに距離を縮めてきて気づいたら脚に手をかけられている。このランダムさが手の断片性を強調もする。「ひらくもの」である歌集に手をかけながらこの歌を読むとき、読者は自分の手が呼ばれているようにも感じることになる。
大森静佳の歌は言葉を追い詰める。並べられた三つの名詞が「響きあう子ら」のように自由には遊ばずにひそかに整列しているのも作者の命令によるものだろう。言葉を追い詰める作者の姿が一首のなかに浮かびあがるときにその気迫が読者の胸を打つのもわかるけれど、掲出歌の魅力、というより魔力は、命令されていることに歌が気づいていないかのようなところだと思う。