斜めがけのカバンに入れた炭酸が尻ポケットのおさいふで弾む

斉藤斎藤「よじのぼれそう」(角川「短歌」2018年9月号)

 


 

斉藤の歌は、……と一般化してその特徴の全体を語りたくなってしまうのが僕にとっての斉藤の歌だ。しかも、そこにある内容よりも、そこで扱われた技術・方法はどういったものか、そしてその技術・方法によってなにが目指されているのか、なにを批評しているのか、といったことを(ときにその全歌業を見渡しながら)読みたくなる、あるいは、そのように読まなければ斉藤の歌を読んだことにはならないのではないか、などと思いながらつい肩に力を入れて読んでしまうのが斉藤の歌なのである。それは読むというより「立ち向かう」というような力の入り方だ。でも我にかえってあらためて斉藤の歌を眺めてみると、決してそのようなたたずまいはしていない。楽しい歌が本当に多い。その楽しさのことを、ここでは(しかたなく)「立ち向かう」ということをしながら、ちょっとだけ記します。

 

「よじのぼれそう」は12首からなる。

 

高架じゃない電車が地べた走る響き 足のうら響きながら跨いだ

 

いわゆる見せ消ちで、「高架じゃない」と言われてもそこには高架を走る電車が見える。だから、やたらと大きな構造物としてのコンクリートや鉄があらわれて、そこを電車が音を立ててまず走る。けれども「高架じゃない」。そこに登場する「地べた」。地上とか地面とかいう言い方ではない「地べた」に、より地面感がある。地上とか地面とか言われるよりも、読んだときにあらわれる視野は、地面に近接している。地上、地面と言われるとそれは俯瞰でとらえた映像を見せるが、「地べた」はちがう。地べたにいる虫の視点、と言ったら大げさだけれども、地面とのそれくらいの近接を僕は感じる。それで、高架と地べたとの高低差や視野のちがいにおどろく。高架を走るときの、どこか大げさなような響きさえ見せ消ちによって引き連れながら、そうじゃない音とともに電車が走る。高架と地べたの音の違いは、正直なところ、完全には理解できない。けれども轟音は聞こえるし、それがこちらの体にも響く。歌のなかでは、それを足裏が感じている。「足のうら響きながら跨いだ」、これがくせものだ。まず、「足のうら響きながら」、ここには助詞抜きと句跨りがある。そしてこの「跨いだ」、何を跨いだのだろうか。電車が過ぎたあとの線路を踏切で、だろうか。その対象が明示されないから、この「跨いだ」は、急に実景の次元を離れて、歌のメタ的な解説のように、「ここに句跨りがありますよ」と言っているようにさえ見える。だとすると、ギャグかなにかのようにも思う。それから、その「対象が明示されない」ということや足裏にばかりぐっと感覚が寄せられたことによるのだと思うが、ここでは「何かを跨いだことと句跨りが内容のレベルと修辞のレベルでリンクしていておもしろい」ということではまったくなくて、この句跨りはただ、跨ぐという足の動きの臨場感を増幅させるものとしてのみ機能している気がする。それから、跨いだのはたしかに「足のうら」なのだろうけれども、跨ぐという行為は、その「響き」を響きとして感じている足裏の持ち主の全体がするものであるはずだから、「足のうら響きながら」から「跨いだ」へは、若干の主体のずれ(足のうら→わたし)というか、視野のずれ(足裏に近いところにある「地べた」の視野→わたしの背の高さにおける視野、あるいはわたしから離れた何かのそれ)というかが生じているようにも思う。そこには、そのずれがもたらす、読者として体感を揺さぶられる感じ、ほんのわずかに混乱させられる感じ、がある。そういえば「高架じゃない」は、「ない」ということの説明だが、「地べた」は説明というより、統語を介した理による説明の手前の、モノの単なる提示だ。「地べた走る」も助詞抜きだ。「地べたを走る」ではない。助詞抜きが、統語による理を遠ざけている。説明の目立つところからそうでないところへと展開している。

 

「高架」から「地べた」への物理的な落差、〈説明〉ということをめぐる位相の差(対比)、「地べた」という語の選択、助詞抜きや句跨り、「響きながら」と「跨いだ」との間にある主体や視野のずれ、さらにいえば、「響き」のくりかえしと、「足のうら」を介することでその「響き」のあるところが電車の走る(走り去る)景を含めた「地べた」全体から「足のうら」へと急に展開する感じ、(詳述はもうしないが)リズムを含めた音の構成……そういったさまざまな仕掛けが読者に何をもたらすかと言えば、上にも触れたが、要は「臨場感」なのだろうと思う。〈私〉というものの固定された視点、というのを評語化し、それをとおして分析・解説することもできるのだろうけれども(そしてそれを僕はほんのわずか、ここでも肩に力を入れて立ち向かいつつやってしまっていると思うが)、それ以前に、電車の音や響きやそれをどのようにこの人が感じたのかといったところを、統語や修辞そのもののありようによって、体感させてくれているように思う。電車の音と響きが、ことばの向こう側にではなく、ことばそのものの中にある。歌そのものがその「現場」となるような仕掛けが、この一首にはわかりやすいかたちで存在している。読者として肩に力を入れてことばに分け入り、構造を分析して理屈をとおして理解してから臨場感・体感を再構成する、といった手続きを踏まなくても、もっともっとダイレクトに、一首が内容を体感させる。つまり臨場感がある。歌そのものが内容の現場になっている。現場、と思わせるような修辞が、ごくごくさりげなく、そこにある。

 

ほそながい一階ずっと商店街 ハギレや杖の店ら犇めく
保育園児ら帽子のゴムでかぶれそう に なりながら押されて横へ
冷房はついているけどむしあつい五月みたいな六月の風
息を止めてはずれまで来た人混みをふりかえるときゆるい坂道

 

同じく「よじのぼれそう」から。現場、臨場感、といった言い方だけではこぼれ落ちてしまうものがだいぶ含まれているのだが(たとえば、「店ら犇めく」といういかにも〈文語〉調・〈短歌〉調の言い方から感受できるものは、現場とか臨場感とかいった以外のものを多分に含む)、やはりその「現場」や「臨場感」ということにおいて、これらの歌はほんとうにたのしい。歌そのものにとどまって快感を得ることができる。

 

今日の一首。わかるなあ、と思う。歩きながら、カバンと尻ポケットの財布がぶつかってぼんぼんと弾む感じ。実際にはカバンが弾んでいるのだけれども、ペットボトル(おそらく)に入っているのが炭酸飲料だから、弾むたびに炭酸が抜けて、抜けた炭酸でペットボトルがぱんぱんになってしまってどうしようといったようなごくごくわずかの心配というか、それによってそこに意識が向かう感じがあって、だから意識あるいは体感上は、カバンではなく炭酸のペットボトルそれだけが弾んでいるように感じられるその感じ。いや、もちろん、単に炭酸の硬いペットボトルの異物感によって意識が向いている、あるいは、カバンの、ペットボトルで膨らんだところだけがぶつかっているということなのかもしれないけれど。ペットボトルのあの弾力。中でしゅわしゅわいっている。財布に厚みがあって、尻ではなく財布のところで弾んでいるという感じ。カバンの中のことも財布で弾んでいるんだという感じもたぶん本人にしかわからないので、これはきっと他人のようすを見ての歌ではないということもすんなりとわかる。「炭酸のペットボトル」あるいは「ペットボトル」でなく、換喩的にだろうか、「炭酸」とここでは呼んでいるところも妙にリアルだし、財布でなく「おさいふ」と言っているところはちょっとかわいらしい。その全体が一首の臨場感、この人が感じているままの体感、を伝えているように思う。とても楽しい。それが弾んでしまっている感じ、意識がぐっと尻ポケットの財布に寄っている感じ、それが生き生きと伝わる。蛇足だが、「かばん」や「鞄」でなく「カバン」という表記であることとか、初句と結句の字余りのリズムなども、とても効いていると思う。

 

「臨場感」「生き生きと」……考えてみればなんとも単純で安っぽくさえある言い方なのだけれども、斉藤の歌を読む醍醐味のひとつとして、それは明らかにある。それを、歌そのものにおいて経験する。体感をおおいに刺激される。楽しい。