平岡直子


木香薔薇の配線は入り組みながらすべての花を灯してゐたり

飯田彩乃『リヴァーサイド』(本阿弥書店:2018年)


 

水平線つまびけば鳴るといふ海を見るため昏き階(きざはし)のぼる/飯田彩乃
この街をやがてちひさく折りたたみ胸に仕舞つてこの街を出る
けふもまた明けゆく道に少年の脳(なづき)のやうな紫陽花が咲く
釣り針を口にふくみてたゆたひぬ基礎体温のうねりの中に
ボールペンの試し書きのやうにさらさらと眠りつつ夜を転がれる子よ

 

飯田彩乃歌集『リヴァーサイド』。見立てがあざやかに決まっていく歌集、という印象だった。もちろんすべての見立てがあざやかなわけではなく、地味なもの、成功度が低いものもあるけれど、ほとんどの歌にアイデアがある。上に挙げた歌でいえば、水平線は弦のようで、街は紙片のようで、紫陽花は脳のようらしい。掲出歌はこれ自体が植物を電線に見立てる歌でありつつ、配線=作者の人生、文体がそれなりに入り組む末端にアイデアが灯る様子、という意味で歌集全体を重ねて読んだ。
木香薔薇に「入り組んだ配線」をみるのは正確な見立てだと思う。喩えるものと喩えられるもののあいだのズレに視点人物の立ち位置や作家性が宿る、というような喩は歌集中にもあまり見られず、公共性が優先されている。掲出歌にも、わかる、というボタンを押される快感がある。木香薔薇の茎はつる性なのであふれるように咲く花のうしろでごちゃごちゃと絡まっている印象があって、どこがどこにつながっているのかよくわからない。あの茎の質感と、コード類のかたまりは気持ちよくリンクする。テレビの裏とか自販機の裏とかそういうものを連想するし、細かいことをいえばそういった電化製品の温かさは、植物+電気という組み合わせからどうしても連想してしまうクリスマスツリーのイメージを一首から引きはがし、木香薔薇の咲く季節である春に正しく安定させているとも思う。
茎を電線に喩えるだけで花が灯ることは仄めかされるので、上句だけで引き返し、下句は違う場所に展開させるという手もあると思うけれど、この歌はそのまま行く。この歌に限らず、見立てのなかの滞在時間を引き伸ばすことでむしろ一首を瞬間的なものにする、という歌は歌集中に多いように思う。
すべての花が灯る、という盛大さは儚さと裏表だ。配線から供給される電気のイメージには、茎から水が供給されるなどの植物の性質が踏まえられているだろうし、「灯す」というのは「咲かせる」ということでもあるだろうけれど、現実には植物のほうは一斉にすべての花が咲くわけではなく、つぼみもあれば枯れている花もある。これは「配線」という比喩が効いているあいだだけ供給される電気であり、その見立てが失われた瞬間に消灯する、言葉の上でのみじかい点灯だ。
マッチ売りの少女がマッチを擦った瞬間みたいなものだ。不思議なのは、マッチ売りの少女と違って、この歌集では炎のなかにみる夢と現実とのあいだに乖離がなく、かぎりなく地続きのように思えるところだけれど、必然性のない場所でマッチを擦りつづけること自体がひとつのアイデアなのかもしれない。掲出歌の木香薔薇が闇のなかに咲いているとは思わなかった。あふれる黄色の花のイメージからか、あかるい昼間を想像した。あかるいなかにあかるく灯る花のみえづらさが幻想的だった。