ほぐれない雲を保ってほほえみの兆しを見せるからほほえんだ

嵯峨直樹『みずからの火』(角川書店、2018年)

 


 

「ほぐれない雲を保っ」たままの〈あなた〉がいる。わだかまり、不安、やりきれなさ、といったことばで指し示されるようななにかだろうか。雲のかたちを借りながら、しかし抽象的に描かれている。体がほぐれない、心がほぐれない、といった言い方のネガティブなニュアンスを思えば、ここではやはり、なんらかの翳りを読み取るのがよいとは思う。しかし、あくまで「雲」を介して描かれたそれだ。「雲」には、すぐに形を変え、ほどけてしまうようなイメージがある。だから、翳り=ネガティブなもの、とただちには判断できない気もする。「雲」を見つめるような目が、つまり、価値判断に流れていかないどことなくフラットな眼差しが感じられる。

 

その眼差しがそこに「ほほえみの兆し」を見つける。それを見せた〈あなた〉は、すこし無理をしているのだろうか、それとも癒しの兆候があらわれたのだろうか。とにかく〈わたし〉はそれを見逃さなかった。だから「ほほえんだ」。見せる「から」、とわざわざ自分の行動の理路を明確にしているありようからは、〈あなた〉の「ほほえみの兆し」がうれしくておのずからほほえんだ、というより、目的があって、つまりここでは、ほほえみを〈あなた〉から引き出すためにほほえんだのだ、というような意識も読めなくはないと思う。あるいは、あなたにつられるように、あなたに応えるように、ということだろうか。

 

「ほぐれない雲を保って」と、価値判断をせずに「雲」を見い出す眼差しが、「ほほえみの兆し」を経て、ふいに能動的になる。「あなたにつられるように、あなたに応えるように」であればもちろん、「能動」とまで言うことはできないけれど、句跨りを経て句のあたまに配された「から」は、いかにも強いアクセントを示し、だからだろうか、ここにはやはりなんらかの意志を読んでしまう。あなたのほほえみを引き出したい、引き出すために〈わたし〉はほほえむのだ、という意志。〈あなた〉への能動性が、「から」という一語に集約されて、〈わたし〉が〈あなた〉と、唐突に関係を結ぼうとする。

 

〈あなた〉に対する、あるいは〈あなた〉との関係に対する、この能動性に驚く。〈わたし〉は〈あなた〉との関係における〈わたし〉を信じている。関係そのものを信じている。それは傲りのようでもあり、無色のいつくしみのようでもある。そして、ほぐれないままそこに静止していた雲が〈わたし〉のほほえみによって唐突にほどけていくさまさえ見える。「兆し」が、雲のすきまから滲みつつある「陽射し」のように思えてくるのは、音の類似によるこじつけというより、歌の内容が実景としてそれを見せるからだと思う。だとしたらこの「ほほえみ」に照らされているのはむしろ〈わたし〉ということなのか。
〈あなた〉は結局、ほほえんだのだろうか。