平岡直子


泣き濡れているのはわたし高いビル全部沈めて立つのはわたし

花山周子『風とマルス』(青磁社:2014年)


 

私に想われてどうするつもりの人ならむ電柱のように夏に立ちいる/花山周子
相聞歌、われを想いて詠いいる君のぶんまでわれがつくりぬ

 

このまわりこむ感じ。

 

仰向けば忽ちのぼる陽炎にガラス玉の中の夏と思えり
窓際の埃が浮ける空間にしゃがめばわれより埃たちたり

 

この立体的な感じ。

 

友達は私のいないときの私の自画像を怖いと言うなり
脇道に母と私は吸い込まれ父ひとりゆく白山通り

 

そして、この奇妙に死角のない感じ。

 

花山周子の歌を複眼的だと思う。一点に対する視点を複数置くことでずれをつくり、そのずれから奥行きを立ち上げる。これはたとえば平面的な絵のなかに影を描きこむことで立体にみせるようなテクニックとは根本的に違うことだと思う。影が描きこまれた絵は片目でみても立体にみえるけれど、花山の歌は読者の側が両目を使って読むことではじめて奥行きを得る。
花山がみせる歌の立体性のバリエーションはさまざまである。ダイナミックなものがあり、繊細なものがある。あるいは写実的な景色があり、超現実的な景色があるともいえるけれど、言葉のスクリーンに映される3D映像の現実と超現実のあいだに線を引くことは便宜上の区分にしかならないだろう。
上に挙げた歌はどちらかというとカメラの切り替えを意識させられる歌が多い。いくつかの角度から映像をみせられることによって頭のなかに空間の全体像が構築される。他方、たとえば第一歌集に〈眉の毛を一本一本抜きながら静かに死んだうさぎを思う〉という歌がある。「眉の毛」と「うさぎ」は違う位相にあるものだ。現実側にあるのが眉毛で、歌の主人公の頭のなかにだけいるのがうさぎだ。両者はほんとうは同時にはみることができないものだけど、毛並みのイメージがリンクすることと、「静かに」が「死んだ」「思う」およびおそらく「抜きながら」にもかかるコネクタとして作用することによって、あたかも同じ位相にあるかのように引きずり出されてしまう。右目で眉を、左目でうさぎをみることになる読者は眉を抜く体感にも儚いうさぎの思い出にも焦点をあわせられない。その中間に、毛が抜け落ちるうさぎといずれ老いる人間のイメージがまざりあった「静かな死」の気配が渦巻く空間を幻視することになるのだ。そして、この「空間」は、いかにも現実的な「埃が浮ける空間」とも地続きにあるものだとも思う。

 

掲出歌に重ねられるのは二つの「わたし」だ。二度目の「わたし」も「~のがわたし」や「~のもわたし」などと言い換えられず、コピーのように「~のはわたし」と繰り返されることに注意を払いたい。
「泣き濡れるわたし」は「眉の毛を一本一本抜く」のと同じように、現実の位相の「わたし」だろう。そして、「ビルを全部沈めて立つわたし」は「死んだうさぎ」と同じように「わたし」の脳内にしかいないはずだ。
入れ子構造のはずの二つの「わたし」は、同じ言いかたでリフレインされることによってひとつのテーブルの上に並べられる。共通因数はくくりだされる。読者は「泣き濡れながらビルを沈めて立つわたし」という奇妙な人物を思い浮かべざるを得ない。
ビルが沈むのは涙によるものだ。都会のビルがすべて水没するほどの量の涙を流している。百人一首に〈わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし〉という歌があるけれど、涙を洪水や海みたいにおおげさに言うのは伝統的な発想だ。あるいは「不思議の国のアリス」に、巨大化したアリスが流した涙のなかで、縮んだのちのアリス自身が溺れる場面があるけれど、掲出歌にも自分のスケールに振り回されている感じもあるかもしれない。ビルを沈めておいてその上に立っている姿はけっこうタフで、ちょっとコミカル。また、沈めた街を踏みつけにしているあたりには、涙の理由に怒りがあることも物語られているようである。
上句と下句の位相が混ざりあうことによって、物悲しい上句と高らかな下句、といった対比も崩れ、泣き濡れることの高揚に、水没した世界にひとり残ったかのような孤独、というようにもみえる。位相の違う「わたし」の一体化による独特のスケール感が物理的な奥行きを出しているとしたら、いくつかの対照的な気分のあいだを循環することが、この歌の感情的な奥行きである。