染野太朗


ドーナツに埋めようがない穴がありこんな時間に歯を磨いてる

生田亜々子『戻れない旅』(現代短歌社、2018年)

 


 

この一首から見えてくる「埋めようがない穴」はひとつではない。

 

まずはもちろんドーナツの穴。それから「ドーナツに埋めようがない穴があ」る、ということを喩として語られた心的ななにか、あるいは状況。不全感、欠落感、飢餓感、というようなもの。それが具体的にはどんなものか示されてはいないけれど、ドーナツの穴をそのようなものの喩としてとらえることはむしろありがちなほどだし、容易に想像がつく。そして「こんな時間」にドーナツを食べてしまうような空腹そのもののこと。つまり、心的な飢餓感ではなく、身体のそれ。もちろんそれはすぐに満たすことのできるものだから「埋めようがない」とまでは言えないけれども、飢餓感として印象は十分に重なる。そしてさらに、夜遅い時間にドーナツを食べてしまったという事実。取り返しようがない、もう変えられない、という点において、その「食べてしまった」ということも「埋めようがない」ということのイメージに重なるはず。「こんな」時間、のニュアンスにそれを見てとれる。

 

空腹(=埋めようがない穴)を満たそうとしてドーナツを食べた、だからこんな時間に歯を磨くことになった。同時に、心的な「埋めようがない穴」にも思いが及び、さらに「食べてしまった」という点でも「埋めようがない」ということを意識している。あるいは、埋めようのない穴の存在が気になってしまって(それが自分自身の心的飢餓感をあらわすような、なにかの象徴のように思えてしまって)、「こんな時間」ではあるけれど(それを消滅させようと)それを食べてしまい、結果的にいま歯を磨いている、ということか。いずれにせよ、いくつかのレベルでの「埋めようがない」をこの歌はいっぺんに提示していて、思いのほか複雑な表情をしている。上の句と下の句のあいだの時間の経過や因果関係、叙述の位相にわりと距離があり、また、ドーナツを食べたことよりも、そしてそれによって穴が目の前から消えたことよりも、「埋めようがない穴があ」る、ということのほうが一首において目立つから、結果的に一首は、「穴」とそれが「埋めようがない」ものであるという事実に、読者をいつまでも引き留める。

 

もともと欠落感を抱えていた人が、さらにまた別の欠落感を身の内に(つまり心の内に)取り込んでしまったように見える。では、歯を磨きながらこの人はいったい、どのような心情でいるのだろう。それが見えにくい。下の句の若干のユーモアを汲めば、欠落感や飢餓感を(とりあえず目の前から)消したことで落ち着いた、満足したということなのかもしれないけれど、やはり「こんな」のニュアンスは消えないし、その腹の中には、そして結局この人の周囲には、いつまでも「埋めようがない穴」が存在しているように見える。

 

淡く遠くに配されたままの諦念(のようなもの)が、霧かなにかのようにずっとこちらにまとわりついてくる、独特な印象の歌集だった。もう少し引きます。

 

乳房まで湯に浸かりおり信じたいから測らない水深がある
塗り分ける色が多くて少しずつ夏の野原じゃなくなってゆく
収拾をつけたところで過去のこと 生きているものだけに降る雨
うらやまずにいられるなんてうらやましい風に抗い青柿は揺れ
伝え合うほどに開いてゆく距離があるよ遠くのフルートの音
生肉に指埋め込めば冷たくてごめんを今もちゃんと言えない
平らだと思った道が傾いでいて だから遠くの阿蘇まで見える/生田亜々子『戻れない旅』