平岡直子


ドーナツに埋めようがない穴がありこんな時間に歯を磨いてる

生田亜々子『戻れない旅』(現代短歌社:2018年)


 

染野さんの選歌とまさか偶然重なったわけではなく、昨日の回を読んで歌も鑑賞もあまりにおもしろかったのでわたしも書きたくなりました。

 

 

この一首から見えてくる「埋めようがない穴」はひとつではない。

 

まずはもちろんドーナツの穴。それから、口蓋だ。顔にあいているいくつかの埋めようのない穴のなかで最大のもの。歯磨きという、歯ブラシにせよ歯磨き粉にせよいったん穴に入れたものがのちに徹底的に取り出されるという特徴のある行為によって、その埋まらなさは強調される。ドーナツの穴と口蓋が一首のなかでどこか重なっていることは歌のつくりからも感じられる。この歌では上句と下句のあいだにおそらく「わたしは」が挿まれていて、それによっておそらく主語が切り替わっているけれど、短歌においてはごく自然な、しかしよくよく考えると不自然なこの操作を仮に無視すれば、文法的には「歯を磨いている」のはドーナツである。
また、べつの読みかたをすれば「ドーナツに(よって)埋めようのない穴が(わたしには)あり」だろう。ドーナツが埋めてくれない精神的な穴については染野さんの鑑賞に詳しいけれど、口からはじまる消化器系がいわば一本の管である以上、肉体的にもこの穴は底が抜けているようなもので、ドーナツを食べても埋まらないことは間違いない。そして、ドーナツと口蓋を比較するといちばんの違いはまさに「歯」の存在であり、これが新生児や老人にはないものであることを考えると「時間」というキーワードの重みが効いてくる。この歌は、ちょっとおおげさにいうならば人体の栄枯盛衰の運命に歯磨きという小さな儀式によって立ち向かう歌なのだと思う。口(の持ち主)とドーナツとの重なりはこの一首だけから充分言えることだと思うけれど、一応、この作者がモチーフ、とくになぜか甘いものとのあいだに身体的な一体感を描く特徴は、ほかの作品〈舐めかけのチュッパチャプスをさし出して風向きを見る私はわかる〉などからも指摘できるだろうか。
こんな時間、という言いかたの空洞にも注目したい。ある特定の時間を指す言いかたでありながら、それが何時なのかは読者には示されない。これもまた歌に開いた穴である。「夜中に甘いものを食べてはいけない」という謎の脅しに晒されつづけている現代人としては反射的に深夜の時間帯を想像してしまうけれど、歌に具体的な時間は書かれていないのだ。時計の文字盤の上では時間が円環を描くことも、この隠された時間を「ドーナツの穴」のイメージに淡く重ねさせる。

 

ダイエットの本に、おやつが食べたくなったら歯を磨きましょう、と書かれているのを読んだことがある。気がまぎれるんだそうだ。埋めようのない穴を埋めようとせず、その穴を磨くほうにシフトするのは建設的でポジティブな態度だ。そして、歌人として正しい判断だとも思う。
歌はドーナツのようにつくれ、と河野裕子は言ったそうだけれど、書き手がその方法論に則って言いたいことの中心を抜いてつくったとしても、あるいはぜんぜんべつのつくりかたをしたとしても、いい歌にはかならず穴があいている。円環構造をつくりがちな短歌には形式上もともと穴があいているようなものだし、書き手に求められるのは穴を通行止めにしないという心がけだけだ。掲出歌においてドーナツから口蓋へ渡される穴のイメージは、作者が軌道を限定しないことによって波紋をつくり、歌のなかにさまざまな口をあける。ドーナツとして、人体の口として、心の欠落部分として、また、鑑賞者すら居座れない一首の通路として。だから、その腹の中には、そして結局この人の周囲には、いつまでも「埋めようがない穴」が存在しているように見える。染野さん全体的に丸ぱくりでごめん。