本多真弓『猫は踏まずに』(六花書林、2017年)
短歌の愛唱性ってなんだろう、と短歌を始めた十代の頃からよく思っていて、僕にはいまだにそれがよくわからない。この歌には愛唱性がありますね、などといった話を聞いたり読んだりしても、その歌に愛唱性があるとはどうしても思えなくてなんだか焦る、というようなことが以前は頻繁にあった。日本語としてわかりやすく、調べがなめらかで、内容に共感できて、だから覚えやすく、ふとしたときにも口ずさみやすい、ということだろうか。それとも、そういったこととはあまりかかわりなく、ヒット曲かなにかのように、ふいに口をついて出てきてしまうような歌だろうか。でもそんなの、人によってちがうに決まっているじゃないか、と思ってしまって考えがそこから先に進まない。自分にはどうしてもわかりにくくて共感できない歌を、思い入れをもってすらすらと暗誦するひとに何人も出会ってきた。単に、暗記している、というだけの歌でも、その「暗記している人」が多ければ、愛唱性が高い歌ということになるのだろうか。いや、覚えられるとか覚えやすいとか、覚えている人が多いとかいったことと愛唱性は無関係なのだろうか。どのような歌に共感するかということはもちろん、どういった日本語が覚えやすいか、口ずさみやすいか、といったことは各人の心身によってまったく異なるものではないのか。
でも、僕のそういった感覚とは別に、明らかに「愛唱性の高い歌」というのは存在する。五七五七七のリズムを抱え、その内部に膨大な日本語(の歴史的な推移)を蓄積した〈短歌〉だからこそ、「人間にとっての表層意識は意識の全体の氷山の一角である、水面下には無意識の領域がすさまじく広がっている」と言われるのとあたかも同じように、〈短歌〉のその水面下の部分が人の心身にこっそりとはたらきかけていて、誰もが認める「愛唱性」なるものを生んでいるのかもしれない。あるいは、愛唱性という語で示されるなんらかの概念が先にあって、それをなんとなく歌に当てはめた結果として、「愛唱性」なるものが後付けされ、それによってその歌をなんとなく「愛唱性のある歌」だと思い込んでいるだけなのではないか、といったことも思う。
でも、本多真弓の歌をはじめて読んだときに、愛唱性のある歌だな、と一般化して思ってしまったことをよく覚えている。ほんの1~2首だけ読んでそんなふうに思い、しかもふだんから「愛唱性なんてよくわからない」と考えているものだから、すぐに僕は「何を根拠にそんなことを?」と思い直した。それで結局本多の歌の愛唱性についてはよくわからなくなった。
今日の一首、会社を出て、ちょっと一息ついてから帰ろうと立ち寄ったドトール。コーヒーを受け取って席に座りぼんやりしていたら、そのまま脱力してしまって立ち上がれなくなった。夜遅くのドトールで、周囲にはやはり同じような人がいて、あるいは、問題集を広げる高校生やおしゃべりで盛り上がるグループなどもいて、ちょっと顔を上げると気づいていなかったBGMが耳に入ってきたりもする。夜のコーヒーショップチェーンのあの独特の静けさ、あるいは騒がしさの中、よどんではいないけれどもちろんすがすがしくもない空気の中、疲れを実感している姿がぼんやりと見えてくる。隅のほうの席で、そこはなんとなく落ち着く場所だけれども、小汚い感じもあり、自分を取り戻せる空間のようでいて、でも天井の隅のカメラから見れば、自分もその他大勢のひとり。「夜もある」の「も」のあたりに、日常のくりかえされる感じや諦念のようなものも見てとれる。場がドトールだというのはいかにも現代的です、疲れの種類も見えます、というわかったようなことを言ってしまいたくもなる。「ドトール」という語が最大公約数的に表す「場の質感」のようなものはどうしたってあるように思う。「草臥れて」はもちろん「くたびれて」だけれども、疲れて立ち上がれないその人を、草が覆ってしまうような映像がうっすらと重なって見えた。疲れがたまってなにもしたくないというとき、あるいは、疲れてはいなくともドトールの隅に座るとき、この歌の「立ち上がれない夜もある」あたりがなんとなく文字になって頭に浮かび、それを頭のなかで音声にし、それから歌の全体を思い出し、この「立ち上がれなさ」の度合いに思いを馳せる、というようなことが僕にはよくある。
パトラッシュが百匹ゐたら百匹につかれたよつていひたい気分
多摩川をわたるときだけ広い空あひたいひとはあなたひとりだ
きみの目を見たことのある目をあらふプールサイドに夕景がくる
年老いてからのゑがほのはうがいいホットバタードラムらむららむ
「新発売!〈朝に咥へて走る用〉恋がはじまる春の食パン」
トーストは転校生に咥へられいま街角を曲がつたところ
音の出る機器のすべての電源をお切りください切つてください
/本多真弓『猫は踏まずに』