月へするおびただしき數のアクセスとその切斷のお月見のよる

川﨑あんな『エーテル』(砂子屋書房:2012年)


 

月にかぎらず、あまりに遠く、あまりに視聴率が高いものに対して人はなぜだか一対一の関係(という錯覚)を築きがちだけれど、掲出歌はそこの視野をぐっと広げた俯瞰的な一首。アクセス、切断、といったインターネットに親しい言葉によるデジタルな方向性の異化がおもしろい。俯瞰は視点の高さを感じさせるので、月の側から眺め返しているようにすらみえかけるけれど、初句の「月へする」は一首の動作の主体をあくまで地球側に留める。ここがたとえば受け身的、あるいは傍観的な「される」ではなく、「する」とぐっと握られているところにはややくせがあり、その先の「おびただしき數」という広がりに対してバランスを欠いているけれど、それによって月をみる人類やその他の生物が束ねられてひとつの人格を得ているような雰囲気が出ており、それもまたこの歌のデジタルな雰囲気に合っているのだと思う。ホストコンピュータに接続されて、同期される人類、的な。
具体性のない「おびただしき」にあるリアルな迫力を感じさせられるのは、アクセスだけでなく切断のほうまで言及することで歌に動きが出ているからだと思う。人が月をみる理由はだいたい同じでも、人が月から目を離す理由はそれなりに多彩なはずで、その多彩さのボリュームを想像させる「切断」への言及は、この数が正確には何桁くらいのことなのか、といった具体性よりも生々しさがある。月へのアクセス数がリアルタイムで反映されるモニタがあるような気がしてくる。有名人が「月すごい」とかツイートしたらアクセス数が跳ね上がったり、月にちょっと雲がかかったらアクセス数が下がったりするやつ。

 

そして、一首を読み解くことで「デジタルに異化された月」のイメージがだんだんと輪郭を結ぶとき、それにはすでに「人工衛星」という名前がついてることに思いいたる。この歌は、歌のなかには書かれていないものの「衛星」という言葉の上に立っている一首だ。その言葉を挟むまでもなく、つまり「人工衛星」がべつの名前だったとしても、月と人工衛星の「地球のまわりをぐるぐるまわっている」という性質的な共通項はなくならないけれど、それでも一首のなかで両者をここまで近接させているのは名称の共有ではないだろうか。
言葉の成り立ちの順番としては、衛星という概念が先にあり、それを踏まえた後発のネーミングが人工衛星である以上、人工衛星のイメージで衛星を詠うのは逆輸入のようなものだけれど、この歌はそういう順序を踏まえた複雑な操作がされているわけではなく、「地球の衛星」と「人工衛星」の「エイセイ」という重なりが注目されただけなのだと思う。言葉同士の血縁関係は無視されて、響きだけが聞きとられる。この作者はそういう無邪気で鋭い耳をもっていると思う。〈ぱぱまま來ましたよ世界は晴天にて颱風あけにする深呼吸〉という歌をみたときなんて、この「ぱぱとまま」は「台風一過」にどうしても含まれてしまう「台風一家」の「一家」からきていると確信したけれど、この台風の一家はみんなが笑いながら死角におしこめてきたものだ。ごく浅いレベルで言葉を聞きとること、ときに聞き間違えることは、その言葉にかけられていたみえない抑圧をほどくことでもある。

 

長廊下はるは踏みつつぷろれたりあああとはぷれぱらあとに近き/川崎あんな