五島諭『緑の祠』(書肆侃侃房、2013年)
僕はこの一首を人知れずとても長く「愛唱」している。この歌を思い出すと、なんだか気持ちが落ち着く。頭を空っぽにできる。歌そのものに心身を委ねてしまえるような感じ。僕がこの歌にはじめて出合ったのは、僕が二度目の大学生活を送っている頃のどこかの歌会でか(早稲田大学短歌会のだとは思うのだけれども)、あるいはその頃のなにかの機関誌でだから、もう15年くらい「愛唱」しているということになると思う。……手元になんの資料もなく、それを探しようもなく、あやふやなことを言っている。とにかく、ずっと前から親しんでいる。思い入れがあるから、『緑の祠』が出版されたときには真っ先にこの歌を探し、「よかった、落とされていなかった」とほっとしたのを覚えている。
ただ、説明しようとすると手に余る。とてもむずかしい、というか、よくわからない歌だ。
「新しい人になりたい」とはどういうことだろう。「自分探し」のような感覚か。でもこの歌には「自分探し」というような高揚した(また、どこか重くて暗いような)自意識を感じない。それとも、新型の人類になりたい、というようなことだろうか。なにをもって「新型」とするかはわからないけれども。その他、時流に乗った人になりたい云々とか、いくつかの読み方がありえなくはないだろうけれど、ただ、この「新しい人」は、そうやって具体的ななにかに換言してとらえられるようなものではなく、本人も具体的にはわかっていないレベルでの「新しい人になりたい」ではないかと読んでいる。ただ漠然と「新しい」という語そのものの意味や語感を思った、「新しい」ということそのものになりたいと思った、ということではないかと思う。「自意識を感じない」とか「漠然と」とか言ったのは、もちろん三句目以降の印象による。空調の音をただ感じている。風が吹き出てくる音や空調の機器そのものの音が聞こえている。それを「落ち着いている」と言って、まるでそこに心身を同期させたかのようなとらえ方をしている。というか、同期させている。そして同時に、どこか俯瞰している。「空調の音」を客観的にとらえて、「落ち着いている」と判断している。メロディーもリズムもない(という言い方は音楽にくわしい人や特別な耳をもっている人からは怒られてしまうかもしれないけれど)、ただボーとかゴーとかいった音が、そこに小さく低く響いている。そのあたりの質感に僕は「自意識を感じない」「漠然と」ということを読んでいる。(……あるいは、もっと単純に、単調な空調の音との対比で、単調な毎日からから抜け出したい、単調で退屈な人間にはならないぞ、という言挙げなのだろうか。)
その「非常に」についてすこし。まず、「空調」のちょう、「非常に」のじょう、という長音が印象的だ。特に「非常に」の長音が、「空調」の長音を引き継いで、また、「じ」の濁音の強さや「非常に」の意味そのものと相まって、より引き伸ばされて聞こえる気がする。でも、その長音の感じも、そして意味も、大げさにはならない。この「非常に」の絶妙さが、「空調の音」とそれを「落ち着いている」とする感受を過剰にアツくすることなく、というか、むしろその温度を下げる方向に作用していると思う。本来ならばその散文性や今説明した語の音の感じが違和感となってむしろポエジーを発生させたり、意味の生真面目さがユーモアやカタさに結びついたりしそうなところ、そうはならない。
「空調の音」が、ボーというとても地味な音であるはずなのに、「非常に落ち着いている」と「新しい人」のニュアンスによって、むしろわずかにポジティブなものとしてあらわれており、それがまた「新しい」に返るとき、ついに新しい人にはなれないだろうということよりも、なれるかもしれないごくわずかな、平たい言葉で言えば、未来への希望が、そこに滲んでくる。具体を志向しないその「新しい」が、わずかな希望の質感だけを伴って、「新しい」という純粋な観念として、読者としての自分の心身に拡散する。「新しい」が具体を志向しないから、思考が割り込んでこない。「新しい人」になれないまま、でも、あたかもそれになったかのような未来を先取りさせる。ただの物理的な音として「空調の音」が低く響いている。過剰に心身を刺激しないその「空調の音」は、自分の呼吸にも重なるようで、体を落ち着かせる。この「新しい」そのものと落ち着きを体感したくて、僕は何度もこの歌を思い出してしまう。
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先週21日(金)の平岡さんの回、「あまりにおもしろかったので」とか「全体的に丸ぱくりでごめん」と言って、僕の文章からのさりげない引用も含めて(引用箇所はそのつど二度見した)僕を立ててくださっていて、とてもありがたくそして恐縮なんですが、実は、そもそもドーナツを食べたのか食べていないのか、というところからしてだいぶ違う読み方なんですよね。でもこれは、平岡さんと僕とで真逆の読みだとか対立するとかいうような種類の相違ではないのだろうなと思いました。その点も、生田さんのあの歌のおもしろいところなのかも。