側溝を流れゆく水着脹(きぶく)れて家鴨(あひる)のような私を映す

道浦母都子『風の婚』(河出書房新社:1991年)


 

道浦母都子の第四歌集『風の婚』に、この歌集の主人公は丸裸か着膨れているかのどちらかだ、と感じたのは、離婚直後の女性がときに抽象的に、ときに卑近に「結婚」というものを問い直すこの歌集のテーマに密接に絡んだ印象かもしれないけれど、その両極端っぷり、そしてどこか動きづらそうなところは、社会問題を映しつづける道浦の作風のそのときどきのテーマへの触れかたに通底するようにも思う。
さて、この丸裸or着膨れているというのは比喩的な印象だけど、掲出歌は文字通りに着膨れている一首。冬の厚着だろうか。それにしても家鴨くらい着膨れるのはかなりの重ね着っぷりである。側溝はよく道路のすみっこというか横にある排水溝で、川のようなものだけどきれいな川じゃない。排水溝が「私」を映すスクリーンに選ばれる点には、家鴨のちょっと滑稽なイメージとあいまってなかなかシビアな自己像がうかがえる。
道に立つ「私」と、道に沿う川に映る「私」がいる。短歌とは大きくいえばこのふたりの「私」の力関係でできているようなものだ。掲出歌の「私」が水鏡側に傾いているのは「家鴨」の登場から感じられる。毛の膨張率とかで考えれば「着膨れている」ことの比喩表現としてもっと適切な生きものはいるけれど、ここで家鴨が出てくるのは側溝にいるのにふさわしいからだと思う。もともと家鴨のようだった「私」が水に映ったわけではなく、着膨れた何者かだった「私」が「側溝」というロケーションへ投影され、そこで再現されることではじめて「家鴨」という譬えを得る。鏡がほかの場所にあったらここは鯉とか海豹とかアルパカだったかもしれない。着膨れることと家鴨のイメージの齟齬のなさによって道のほうの「私」のアリバイをつくりながら、川のほうの「私」にこっそり主導権を渡している。こういった取り引きではメインロードに立つ「私」のほうが引きたてられることが多いので、この取り引きは珍しいのではないだろうか。家鴨かわいい。
この歌の裏に貼りついているのは、更新されるべきものが更新されない、という自意識のように思う。「流れゆく水」は、しかもそれが排水溝を流れる水であればなおさら、排水を押し流し、ものごとを新陳代謝させる水であるはずだ。そこに映る像は、川の流れに運ばれる水鳥のようにその位置から消えてもいいような、あるいは薄皮を剥ぐように着痩せしていってもいいような気がするけれど、なぜか元の姿のままそこに映りつづける。その「私」の素朴な発見が、この歌集のなかでの精神的な着膨れを、その裏側の丸裸とほとんど同じものにみせるのかもしれない。流れていく水に映る自分というのは不思議だ。一瞬前の水はそこにはないのに像はちゃんと引き継がれて連続性のある姿のように映る。歌に映る自分の姿もまた。

 

ポシェットは肩から腰へすべり落ちフェミニズムさえわれを救えず/道浦母都子