飛来するトンネルの穴つぎつぎに生きているまま吸いこまれたり

佐伯裕子『感傷生活』(砂子屋書房、2018年)

 


 

さまざまな観点をもって語ることのできる歌集だと思うので、単純には総括できないのだけれども、とにかく、生老病死、という、ことばにすればいかにも平凡なその語のことをこの歌集を読みながらずっと思っていた。しかしもちろんそれは、この歌集が平凡だとか退屈だとかいったことに通じるものではない。読者としてダイレクトにその語の核に届いてしまう感覚になるのだ。そして、この歌集を覆う湿った、しかし同時にふしぎと風通しのよい感じが妙に心地よかった。どの一首にも、体感や思考におけるほんのわずかな、独特の角度、歪み、表裏の反転、といったようなものが含まれているように思う。ただ、思考より体感を刺激されることのほうが僕には多かった。歌集の紹介ということではその、生老病死、というのが直接にあらわれている歌を主にして引用すべきなのだろうけれども、まずはとにかく「体感」といったことを意識させる歌をすこし引く。

 

椅子の脚の影いく本がゆらめくから私は泣いているのかも知れぬ
二万発の花火が雪のように降る東京に独り病む友のおり
揺らしくる風鈴売りの風鈴をたましいと知りぬ過ぎたる後に
誰もだれも脆き内臓をもち歩く、と思えばやさしき街の景なり
浅く吸ってかるく吐きだすように咲く北陸の街は花のたなびき
ひんやりと霧吹きつけし足首の花の香水の名は忘れたり
大いなる水槽めぐる館内に鮪とわれと影もたずおり
日の暮れは体が青くひかるのよ家の扉の前のところで
この風は上州生まれの祖母の息わたしが吹けば祖母も吹きくる

 

今日の一首。高速道路をイメージするとよりわかりやすいと思うのだが、つぎつぎにトンネルに入っていくようすを、「飛来するトンネル」というふうに、動く側を「トンネル」のほうにして、しかも重厚な構造物を素早く軽快に飛ぶ生き物のように言っており、それによって、特にそのトンネルに入る瞬間のことが、例えばジェットコースターの、あの速さや浮き沈みによって感じるような体感をさえ伴って、迫ってくる。視覚と触覚をやたらと刺激するようなかたちで迫ってくる。ばんっ、と音を立ててそこに入る。「つぎつぎに」をブリッジにして、視点の位置は固定されたまま、「トンネル」から人物へと主語が唐突に切り替わる。歌が見せていた動きの方向が逆になる(「飛来する」「吸いこまれたり」は俯瞰した視点からの描写でもあるから、「主語が切り替わる」「視点の位置は固定」「逆」とも言い切れないのだけれど)。「トンネル」が〈来る〉から、「トンネル」へ〈行く〉になる。スピード感はそのままに、読者はそこで一度、「トンネルの穴が吸いこまれるわけではない、人物が(生きているまま、つぎからつぎへとあらわれるトンネルに)吸いこまれるのだ」とつじつまを合わせるための思考を挟むことになる。そのこともこの「トンネル」に入るときの独特の体感に影響しているかもしれない。(飛来する、といって生き物のようにして登場しているから、「トンネル自体が生きているままで、何かに、あるいは別のトンネルの穴に吸いこまれていく」という読み方もできなくはない。それはそれである象徴性が出てきて、おもしろくはある。また、その両者を重ねる読みもあろう。)俯瞰、と言ったが、「生きているまま吸いこまれたり」は、そういった体感とは別にいかにも説明をしている感じもある。ただここでは、「つぎつぎに」という語や調べのかろやかさの影響もあってか、体感として、トンネルに吸い込まれそこを通る速度が落ちる感じはあまりないように思う。

 

「生きているまま」と言われることで、そのトンネルは本来なら死者としてくぐるもの、あるいは、生きているまま通るのは痛みを伴うこと、残酷なこと、のように思えてくる。ちょっと怖い。「本来なら生きながらくぐるものではないのに」という前提がある。「飛来する」と形容されて異化された「トンネル」が、死や痛みの象徴としての「トンネル」としてふたたび異化される。「本来なら生きながらくぐるものではない」ということを前提としてしまうところに、読者として一般化はできない、この主体独特の感受があるが、トンネルの「闇」を思えば、これは読者として理解や共感ができないものではないはず。するとこの「生きているまま」が、歌集のなかでは、はじめに言った「生老病死」ということをみちびく回路になっていることがわかる。たとえばこの歌集には「義母の葬り」「母の葬り」という連作が続いて収められていたりする。そのあたりをこの「生きているまま」によって照らすとき、この主体が吸いこまれていった「トンネル」の闇が、具体的で、立体的になる。

 

「母の葬り」という連作からすこし挙げる。

 

ストレッチャー夏の終わりの手が二本見慣れた足が二本すぎゆく
親族の黒いかたまり看護師の白いかたまり死は明るくて
ぬくもりのなおも手にありありありと晩夏の風の湿りをおびる
ぎゃあと叫びこの世のすべてを消せる声、悪鬼のような声の欲しかり
雪のごと灰ふりかかり葬り処の赤い鳥居も見えなくなりぬ

/「母の葬り」

 

さらに、この一連のあとには、次のような歌があった。

 

日当たりに乱反射する遺品たち母は何かになったのだろう

 

「何かに」ということの直観と、一首全体の口調ににじむ客観。母の死と、その直観と客観のすべてを覆ってしまうかのような乱反射の光が、かなしく、印象的だった。