乳首透けたる服を纏へるをみならをよぎりて耳の無きゴッホまで

黒瀬珂瀾『蓮喰ひ人の日記』(短歌研究社:2015年)


 

これは真面目な感想なのですが、黒瀬珂瀾第四歌集『蓮喰ひ人の日記』は乳首についての歌集だと思いました。約一年のイギリス滞在が日記形式で綴られるこの歌集は、その滞在の初期に子どもが生まれていて、育児日記のような側面も持つ。つまり乳首はその子どもの描写とセットでよく登場するモチーフなのだけど、頻出するそのモチーフが同時に思いださせるのは、この歌集は母国・母語からの一時的な「乳離れ」を余儀なくされた作者の記録でもあるということだ。日本の国旗が遠目には乳首的であるということにわたしはこの歌集を読んではじめて気づいたし、たとえば同歌集の〈ヤヨイ・クサマの水玉(ドット)に遊ぶ水玉(ドット)かな連絡船(テムズリンク)に揺るる一家は〉に描かれる草間彌生の水玉模様、歌集タイトルの「蓮」の根の断面などはそのイメージに連綿とつながるように思う。乳首、乳離れといった口唇的な比喩は、言葉が、そしてとくに歌は口に出されるものだからだけど、その耽美性が音楽的というよりは絵画的な黒瀬の歌においては、乳首のイメージが視覚的に、ときにパターン化されて表れるのも筋が通っていると思う。
掲出歌に登場するのはその番外編のような乳首だけれど、ノーブラで屋外を歩くのが現時点では日本にはあまりない習慣である以上、異文化に触れていることのひとつの表れといえるだろう。ゴッホの耳は短歌ではよくみるモチーフだけど、この歌にめずらしいのはゴッホの本体のほうが詠われていることである。多くの歌に切断された耳のほうが出てくるのは、知名度、インパクト、言葉のサイズ、いろいろな点で芸術家の狂気への畏怖や親しみが乗せやすいアイテムなのだと思う。掲出歌に出てくるのはその耳に残された本体のほうで、これはおそらくはただ単にゴッホの作品というのではなくゴッホの自画像なのではないかと思うけれど、ゴッホに「耳が無い」ことと、作者が「母語の聞こえない環境にいる」ことはどこか重なっているようにも感じられる。一首の突き当たりに置かれたゴッホへは心寄せがある。
この歌の「をみなら」と「ゴッホ」はあらゆる点で対照的で、ゴッホのほうはないない尽くしである。身体のパーツがあるのが前者、欠落してるのが後者、生きているのが前者、死んでいるのが後者、複数人なのが前者、ひとりなのが後者。乳首と耳はどちらも二つでセットという対称性を持つ器官だけど、「自画像」もまた本来は被写体と絵が対称的にセットになっているものである。片耳が欠け、被写体が欠けているゴッホは全体的に「半分しかない」という印象で、ゴッホ情報が一首の約半分を占めることがその印象を強調する。名前以外何も持っていないゴッホに心を寄せていくことの、奇妙に謙虚でありつつかなりの自負も感じるちぐはぐさは、歌集タイトルで「蓮喰い人」を名乗る謙虚さと自負のあいだの屈託に通じるものがある。逆説的にいえば、それほど簡単に母国を忘れられれば、古典の登場人物になれるのだと思う。