傘を差さなくていいほどの雨が降るという気象予報士の目を見てしまう

竹中優子「冷蔵庫置く」(「罠と伊予柑」、2018年)

 


 

「罠と伊予柑」は2018年6月発行の、竹中優子の個人誌。同じく6月の福岡ポエイチというイベントに100円で販売されていたのだが、短歌計70首ほどと、詩4篇、エッセイ3篇、小説1篇を含む充実の内容で、圧倒される。

 

「冷蔵庫置く」は、

 

朝の電車に少しの距離を保つこと新入社員も知っていて春

 

という一首からはじまる50首。

 

ばか、図々しい、それゆえのセンスの良さがきらめいて業務改善案届きたり
派遣さんはお茶代強制じゃないですよと告げる名前を封筒から消す
お茶代にお湯は含まれるか聞かれたりお湯は含まれないと思えり
体調が悪くて休むと言った人がふつうに働いている午後の時間
上手く行かないことをわずかに望みつつ後任に告ぐ引き継ぎ事項

 

といった歌が含まれる。竹中の職場詠はふしぎだ。どこか冷えていてしかもユーモアのにじむこの感じは決してめずらしいタイプのものではないと思うけれど、ほんのわずかのある一点が描かれることによってむしろ場の全体の空気(のシビアさ)や現代の常識がもたらす非常識といったものがあからさまに浮上してしまう。ぶっきらぼうにも思える口調や、一見するとどこか破綻しているかのような論理や語法が、対象との距離感や文体の特色となってむしろ活きている。関係や心情の機微が見えてくる。

 

残業を嫌がらなくなった古藤くんがすきな付箋の規格など言う
シュレッターの周りを掃いている我の隣に古藤くんじっと立つ
納得しましたから、が口癖になる古藤くんの眉間に春のひかりが降りぬ
決めつけて言うとかじゃないからマシですと古藤くんが机に置くパンダ

※シュレッター(原文ママ)

 

同じく「冷蔵庫置く」より。古藤くん大丈夫だろうか、と思う。なにかをやや無理して合理化し胸に堆積させている古藤くんが危うい。古藤くんの背後に時間の経過が見えてくる。

 

今日の一首。傘を差さなくていいほどの雨が降る、というのは日常のなかではあるいは「ふつう」のフレーズだと思う。それがこのようにあえて引用されることによって、そして「目を見てしまう」によって決定的に、そのちょっとへんなたたずまいが暴かれてしまう。そのフレーズを読者として観察してしまう。傘を差す差さないの感覚には個人差があるのだから結局どの程度の雨なのかわからないじゃないか、というこの人の意識が見えてくる。「傘を差さなくていい」と「雨が降る」とを特に取り出して、そこに言葉としての矛盾を見ているのかもしれない。

 

気象用語になったとき、僕たちの日常の言葉が突如として、日常にはない厳密な意味の規定を受けて姿を変えてしまうことがある。「一時雨」と「時々雨」では雨の降る時間の長さが異なり、「超大型の台風」と「猛烈な台風」ではそもそも台風の何を指しているのかが違う(前者は大きさ、後者は風速)。そのような種類のものとして「傘を差さなくていいほどの雨」があるのかどうかはわからないけれど、気象予報士がそれを言うとき、「一時雨」や「猛烈な台風」のような専門・特殊用語としてもこのフレーズが見えてくる。となるとこのフレーズは、気象予報士にとっては精確で矛盾のない、役立つ意味を帯びたものとしてそこにあるのであり、しかし「目を見てしまう」というこの人には、曖昧でよくわからないもの、異質なものとしてそこに提示されているわけだ。そして、「派遣さん」ではなくもちろん「古藤くん」でもない「気象予報士」は、ここではただ天気を伝えるだけの、専門・特殊用語のテリトリーからはみ出さない言わば「装置」であり、しかもテレビの中にいるから、眼差しを送ったとしてもそれはどうしたってこちらからの一方的なものとならざるを得ない。「目」を見たところであちらに伝わるものはもちろんなく、こちらに伝わるものも目を見る前と後で変化するとは思えない。「目を見る」という行為が対象を、日常の側の「人間」としてテレビから連れ出そうとするけれど、結局それは叶わない。その叶わないということが「気象予報士」を、かえって人間としての個性を持たないロボットのようなものとして際立たせる。

 

それによって「目を見てしまう」ということの生々しさがこの歌では宙吊りにされる。

 

そしてついには、そのような眼差しを送ってしまう奇妙な人物として歌の主体が再登場する。

 

ここまで考えてふたたび「古藤くん」の歌を読むとき、思うのは、「古藤くん」と「気象予報士」は、むしろ交換可能な存在なのではないかということ。テレビの中に「古藤くん」がいても、「気象予報士」が残業を嫌がらなくなっても、この人は変わらず「朝、通勤の電車で同じ車両に乗っていても、互いに近づいたり話しかけたりしない」ということをまるで就業規則かなにかのように描くのではないかということ。その「少しの距離」に、関係や心情の機微を必要以上に感じ取っているはずなのに。

 

怒りという外階段をくっつけて一日は我の中に立ちおり
後ろめたいときは真顔を保ちおり カレーライスの皿の円形

/「冷蔵庫置く」

この人を傷つけないで黙らせたいという用途で作るほほえみ
ゆっくりと動くものだけ見えないという複眼に沈みゆく夏

/「複眼」(角川「短歌」2018年10月号)