『ブンバップ』川村有史(書肆侃侃房)
うちの子どもがまた殴られて。ほんとあたまきてさぁ、もういよいよと思って家に乗り込んだわけ。そしたら相手の親なんか笑ってんの。こっちは本気で怒ってんのに笑うとかほんと信じられなくて、ますます腹立って、そもそも相手にしちゃいけないのかもしれない。誰に怒ったらいいんかね。
道すがら、たまたま聞こえてきた親同士の会話を折々思い出す。子ども同士のちょっとした諍い、にとどまらずそこにある暴力沙汰を思えば暗い気持ちになる。殴られた子とその親へ自然と心を寄せながら、同時に殴るほうの子どものことを考えている。相手との間に何か起きたとき、その子どもは殴る、という衝動性を止めることができない。言葉で話す、説明するのではなく力でねじ伏せようとする。もしかするとその子どもの身近には同じようなことがある/あったかもしれない、そう想像するのに難くない。暴力の連鎖、そんなことを思って、たしかにそうであるならば問題はより根深く、殴ったほうの子どもだけを周りが叱ったとしても解決されるわけではないのかもしれない。
「(私に対して)ひどい事した父親」、けれどその父も「ひどい事された父親」であるならば、父もまた、私の親となる以前から既に被害者であったと言える。とはいえ、私にされたひどい事はそれとしてある、私は傷ついている。
そのように無意識に「ひどい事した父親」と「ひどい事された父親」を同一人物として捉えて読んでいたが、「や」で並列されるとき、父親はより広く、ひとりでないととるほうが自然かもしれない。「(私に対して)ひどい事した父親」「や」それとは別に存在する、「ひどい事された父親」たち。そう考えるならむしろ、「ひどい事した父親」も私と関係があるとは限らない。が、やはり主体の思いが起点としてあることによって、並列される父親が浮かぶのだとも思う。
「ひどい事」にもさまざまなバリエーションがある。暴力のほか暴言、厳しすぎる躾、ネグレクト、金銭問題、不倫、また名指すことの難しいようなより込み入った個別的な出来事、広く提示される「ひどい事」の開け放されたような物言いに諦めと、もう構っている訳ではないという無表情を感じる。結句「みんな父親」と言い切るところに凄みというのか、凄みと言っていいのか、ここにこそ諦念ははっきりとある。3度出てくる「父親」の抽象性、「父親」たちはぼんやりと濁ったままとどまって離れない。そこに誰がいるのだろう。誰かいるのだろうか。声のない、くり抜かれただけの、影のような父親たちがいる。
やさしい風がやさしく吹いた 蠟燭はフィジカルのまま優しく揺れる
