マルボロをふかせる君に肺といふ逆さの桜いま咲きほこる

藪内亮輔「心は川」(「京大短歌」24号:2018年)


 

おなかのなかはほとんど腸だよ、と教えられたことがある。そのころ医学生だった友だちが言ったことだからきっと事実なんだろうけれど、あのときはびっくりした。イメージとぜんぜん違う。医学生ではないわたしも人体のメジャーな臓器のことは知っているつもりでいて、わたしのイメージによるとおなかのなかのほとんどを占めているのは胃、腸はだいたい下腹部の五分の一くらいに収まっているものだと思っていた。腸がそんなに幅をきかせているとはしらなかった。自分の胴体のなかのことがわからない。わからないというなら自分の頭のなかのことだって、感情の理由も記憶の配線もわからないし、わからないことしかないようなものだけれど、思考や感情と違って内臓の配置は物理的に存在するのに自分ではなかなか点検できない。日常生活のなかでは皮膚の外側からしかみることができない内臓のことを、感覚的には内側からしか理解できず、これって二人羽織のように不全だ。身体のなかみはいちばん身近な謎だ。
掲出歌はわかる。肺という内臓のことを言っているけれど、この歌でなにが桜に見立てられているのかがよくわかるのは、内臓にまつわる事実ではなく、人が自分の内臓に対して抱くイメージのほうに全乗っかりで絵が描かれているからだ。この「逆さの桜」に重ねられているのは気管支だ。気管支を強調した肺のイラストは理科の教科書でみたことがあるし、禁煙をうながす口うるさいポスターなどに用いられていることもあるような。肺のなかで太い幹から細かく枝分かれするような線を描く気管支は、たしかにひっくり返した樹のシルエットに似ている。それもすっと背の高い樹ではなく、たしかに桜のように横に枝を張らせるようなかたちの樹に。
だけどあれは樹に喩えるなら、葉も花もない枝だけの樹ではないか。そこでマルボロが出てくる。白い煙が白い花になる。煙草の煙が送りこまれることで、小さな枝の先に花が咲く。気管支を樹に見立てた上で、その先端に花を幻視する。ないキャンバスにないものを描いている。桜と死人、桜と灰などの連想が、重層的に幻の花をライトアップする。「君」の体内を透かしみるような鋭い目をしながらあさってのものをみている。藪内はそういえばずっと偽レントゲン技師だった。
病んだイメージだと思う。満開の桜にはそもそもどこかこわいイメージがあるけれど、逆さに置かれることで禍々しさが強調され、しかもあらぬ場所で咲いている。ほとんど病気の比喩のようだ。ニコチンが毒であるように掲出歌にも毒があり、桜の禍々しさによるこの歌の毒は喫煙習慣を嘲笑う毒だ。だけど、嘲笑いながらもどこか本気でこの桜を美しいと信じているような、桜ににじりよっていく気配があって、その陶酔が一首に魔力を乗せている。病を美しさを見出す感覚にはある古風さがつきまとうけれど、その美意識に合った文体だと思う。