染野 太朗


短足を櫂として漕ぐ水中の河馬の軽さよ尻尾も短い

矢澤保「日々逡巡」(「ヘペレの会活動報告書」vol.1、2018年)

 


 

大真面目に語ることなのかどうか結局わからないままなのですが、気になる一首なのでちょっとだけ書きます。

 

「日々逡巡」は15首からなる。今日の一首の直前には、

 

水槽に円筒形の腹見せて河馬は近眼こちらは見えぬ

 

という歌がある。動物園かどこかで河馬を見ているようだ。今日の一首、一読して笑ったのだが、そのあとですぐ「結局なんなのだろう」と思い、けれどもさらにそのあとには一首のつくりに立ち止まって、いろいろと考えてしまった。重い河馬が短い脚を動かして泳ぐようすも、浮力を得て軽そうに見えるようすも、おもしろいとは思わなかったのだけれども、「尻尾も短い」はやっぱりおもしろいと思う。「櫂として漕ぐ」と言って河馬を舟に見立て、「河馬の軽さよ」と言ってその水の中での軽そうな感じに焦点を当て詠嘆までしておいて、でもそのふたつを回収せずに、オチをつけず、結局「脚と同じく尻尾も短い」と言って、その短さにのみ言及して一首は終わってしまう。「櫂として漕ぐ」も「軽さよ」も自分で言っておいて無視するなんてなんだかこの人、気が散っている。と思いきや、「短足」だからこそひょこひょことした動きで、だからこそそもそもの重量感との対比でなおさら軽く見えて、つまりそのひょこひょこと動く脚の「短さ」が際立って感じられ、それによって同じく「短い」尻尾に注意が向かったのだろうな、というふうに、よくよく想像していればその視線と思考・心情の必然を感じとることもできる。でもその視線や思考・心情の動線がことばのずいぶん向こう側にあって見えにくい、というか。上に挙げた「水槽に~」の一首にも問いただしたいところがある。この「河馬」を現実に存在するカバだと信じた上で読むならば、そもそも「円筒形」というのは「腹」というより胴体の全体を見ての描写のようにしか思えないし、だから「円筒形の腹」はわかるようでわからないし、しかもその「円筒形」という形状への言及はやはりたちまちに捨てられてしまって、唐突に客観描写から離れ、「河馬は近眼である」という自らの知識が挿入され、その上で「こちらは見えぬ」と言われても、「見えぬ」ことがどういう意味をもつのか、その手がかりとなりそうな上の句は「円筒形」への言及でしかないから、ほとんどわからない。気が散っている。いやもちろん、河馬と人間の視線の不均衡、といったような批評を読み取れはするのだけれども。二首とも、単に内容や取り合わせが予定調和をはみ出しているということでなく、むしろ予定調和によく馴染みそうなことば運びと論理展開(主に付属語によるもの)が表層に浮き出ていて、でもそれを構成する自立語自体は実はすこしずつそっぽを向き合っており、でもやっぱりどこかでは手をつないでいて、だからこそ素直に笑うことができるし、一方で「変だよ」と言ってつっこむこともできる、というか。あと、これは言語感覚としてあまり自信のないところなんですが、「短足」というのはたぶん日常的には「脚が短い」という状態のことを言うのであって、つまり「短い」を指しているのであり、「短い脚」そのもの、つまり「脚」を指しているのではないと思うんですね。それを初句ですっと「脚」として差し出すのは、表現として若干の違和感と歌のつくりとしての洗練を同時に感じさせて、目立たないながらも一首の巧みさの一部になっているようにも思う。そこにも見所があって、つまりこちらの気が散る。このようなフラットな感じの観察の歌はこの作者のものに限らずほかにいくらでもあるはずなのに、なんだか気になる一首だった。

 

「馬に草あげるの、好き」と馬のいない芝生で矢澤さんがつぶやく

/北山あさひ「ヘペレの会活動報告書」vol.1

 

「、」の位置が絶妙だと思う。