わたくしを生きているのは誰だろう日々わずかずつ遅れる時計

岸原さや『声、あるいは音のような』(書肆侃侃房、2013年)

 


 

「わたくしを生きているのは誰だろう」は、生きている自分を別のところから見ているような感覚。周囲と交わりながら今まさに行動をし思考している自分と、それを俯瞰で見ている自分がいる。離人感、ということかもしれない。

 

読者として上の句の問いに対する答えを考えたとか実存の感覚をつきつめていきたくなったとかいうふうにはならなくて、そのような問いをもってしまうときの心身の状態ってどんなものなんだろう、このような問いを発する人ってどんな人なんだろう、というふうに僕は想像した。

 

上の句と下の句をどうかかわらせるか、読み方の可能性はいくつもあるように思う。たとえばひとつは次のようなもの。まず、わたくしを生きているのは誰だろう、とその人がふと思った。つまり、「わたくし」というものが〈ほんとうの自分〉の意思とは関係なく生きているように思った。〈ほんとうの自分〉が〈ここにいる自分〉から乖離しているような感じがして、〈ほんとうの自分〉が現実から取り残されるような気がした。その、取り残される、ということを「わずかずつ遅れる時計」のようだ、と喩的に表現した。……という読み方。すると、上の句は今まさにこの歌の主人公として生きている主体(〈ほんとうの自分〉)の言葉。「~のは誰だろう」と思っている。下の句は、そういうふうに思っている〈ほんとうの自分〉をさらに俯瞰で見て「遅れる時計」を描いた別の人物の言葉、ということにもなろうか。

 

確信はもてないけれど、僕自身はこう読んでいる。毎日すこしずつ時計が遅れている。でも実は時計が遅れているのではなくて、自分の「生きる」ということのペースが少しずつ速くなっているということなのではないか。時計はまったく狂いがなく正確で、いつでも同じペースで時を刻んでいる。それを見る自分のほうがおかしいのではないか。……少しずつ速くなっている、と言ったけれど、理屈に沿うような説明でなくてもここでは別によくて、遅くなっているのでもなんでも、とにかく「時計」のほうが正しい側にあって、それを正確なものとして見ることができないのは自分になんらかの原因があるからなのではないか、ということ。でも、その時計だけを見ている限り、それに対する客観的な判断材料はどこにもあらわれない。自分と時計だけがそこにあるから、ほかと比較することができない。そんなときに生じたのが「わたくしを生きているのは誰だろう」という感覚。確証をもてるものがなにひとつなく、自分の周囲のあらゆることが、そして、自分自身の存在さえもが、ひどくあやふやなものに思えてきた。今ここで行動しているのは誰なんだろう、そもそも、そのように思っているこの意識ってなんなのだろう、誰のものなのだろう。……というような読み方。(この場合も、上の句と下の句ではその発話者のある位相は異なるように思う。)

 

ちょっとだけこまかい話をして終わります。上の句はわりあいにゆったりと思いを述べているのだが、それを支える下の句は、文節の切れ目が上の句に比べてやや小刻みで、「遅れる」という内容とは対照的に、音のテンポがすこし速くなる感じがある。下の句の濁音の位置も、その濁りを携えたままリズムを支えていて、テンポを煽る。それが僕にはちょっと怖かった。ごくわずかながら、不安を煽ってくるような感じ。上の句の何気ない問いと下の句の描写を読んだ読者を、その速さ(あるいは、加速)によって不安のほうへ押しやる、というような。