またひとつピアスの穴をやがて聞くミック・ジャガーの訃報のために

松野志保『Too Young To Die』(風媒社:2007年)


 

ミック・ジャガーは言わずと知れたロックミュージシャン。と書きだしてみたわりに、わたしはローリング・ストーンズをろくに聴いたこともなければミック・ジャガーがどんな人なのかもよく知らないのだけど、そんなわたしでも名前をみてすぐにピンとくるという点でやっぱり言わずと知れていると言っていいだろう。この歌集が刊行されてから十年余が経つ現在もまだ訃報は届いていない。
耳という器官の複雑な陰影があらわれるこの歌には、さりげなく省略されている部分が二つある。ひとつは「耳」という名詞そのものである。そもそもピアスは耳たぶに開けるものとは限らないのだけれど、音楽、訃報と二重に「聞く」ことの話をしているこの歌についてはやはり耳のピアスを想像していいのではないか。それから、「ピアスの穴を」のつづきが省略されて言いさしになっている。穴を「どうするのか」が書かれていない。そして、これらの省略はただ限られた文字数のなかで表現を洗練させたというだけではなく、省略されていることにそれぞれ意味があるように思う。
訃報のためにピアスの穴を開ける。この行為には、音楽を聴くこと=耳によってかかわってきた人との関係を耳の上で完結させようとする潔さとともに、しかし訃報だけは耳の穴に入れたくない、聞きたくない、という抵抗があるようにも感じられる。音を聞きとる耳の穴の手前に落とし穴のようにピアスの穴は開けられた。あるいは、開けられるのだろう。「耳」という名詞の省略には、この歌にとっての耳の大きさが逆説的にあらわれているように思う。一首の背景が耳であるようなものなのでそれが耳だという輪郭がとれないのだ。そして、耳が隠されることによって「穴」が不安定なものになる。穴とは本来あける場所があってはじめて穴になる。この形而上学的な「穴」が象徴するものは、心の穴だろう。その訃報の意味の大きさが迫ってくる。
二つ目の省略、「穴を」の言いさしは一首の表情を読みとりづらくさせる。述部に最も主体性があらわれる。「開けた」なのか「開けよう」なのか「開けたい」なのか、はたまた「開けたがっている」なのか「開けたらしい」なのか。述部によって推し量れるはずのニュアンスがこの歌からは欠けている。そして、それはこの歌のテンションの不思議なちぐはぐさとマッチしているように思う。ピアスの穴を開ける、いわば個人的な生前葬のような儀式をわざわざしてしまうほどに重要な相手について、同時に「訃報をやがて聞く」という冷めた認識をしていること。これは、その人がそのうち死ぬことへの抗いがないだけではなく、自分より早く死ぬことを確信しているということだ。この歌は熱くて冷たい。激白をしているようにもみえるし、他人事を描写しているようにもみえる。
作者の松野志保は、作者とイコールではない主人公や、視点人物が関与しない関係性を描くことを得意としている。それでも、たとえば対照的な性質のふたりの人間を描くのは、図式的になりやすいという点でひとりの人間が抱きうる両極端な性質を描くより難しいことだと思うけれど、この歌があるフィクションっぽさを持ちながらも図式的になることを回避しているのは、一首の熱さと冷たさがうまく乳化しているからだと思う。主体性を曖昧にする言いさしは、そこを乳化させる界面活性剤の役割を果たしている。わたしかもしれない。わたしではないかもしれない。わたしの意思のような、あなたの意思のような。

 

ところで、初句に「またひとつ」とあるということは、それがはじめてのピアスの穴ではないということだ。いくつものやがて聞く訃報に備えたピアスの穴が並んでいる耳たぶを想像する。墓穴だけが掘られた墓地のような耳たぶ。墓標(訃報を聞いてから開けられたもの)ではなくあくまで墓穴であるところがポイントだと思う。圧巻。そしてわりとこわい。