染野太朗


たてがみに触れつつ待った青空がわたしのことを思い出すのを

大森静佳『カミーユ』(書肆侃侃房、2018年)

 


 

今日の一首には「二〇一六年、夏」という詞書が付されている。歌集中、「風(サルヒ)」という一連に含まれる。「サルヒ」はモンゴル語で「風」。初出は大森の個人誌「салхи サルヒ」(2016年)で、大森自身のモンゴル滞在を素材とした短歌が、さまざまな写真とともに掲載されている。今日の一首はその冊子の一首目で、草原とそこに広がる青空の写真が添えられている。写真の中央、ちょうど草原と青空のあいだあたりに包(パオ、遊牧民のテント式家屋)が三つ見え、そこから弧を描いて画面の手前まで小道がとおり、そこを歩いてくる親子らしき二人が小さく見える。草原と空の渇いた質感や広さが印象的な一枚だ。この歌を僕は、みずからの内なる自然・野生の回復を願う歌、というふうに読んだ。この「待った」には、祈り未満の独特の静謐さがにじんでいるように思う。「たてがみ」は馬のそれだろうか。あるいはもっと抽象的な、観念上のなにかかもしれない。

 

ごく大づかみに言うけれど、やはり大森の歌の言葉、そしてそこにあらわれた観念・思想は、粘り気があって強い。輪郭が濃い。どんな太いペンでどんなに大きく書かれても、その物理的な濃さや大きさに負けることはないだろうなと思わせるような濃さがある。ふしぎなのは、だからと言って情や景の把握が粗いかと言えばまったくそうではなく、また、読者として主体の感情に呑まれてむしろその世界に入り込めないとか、胸やけがするとか、そういったことも感じられないところ。押しつけがましくないと思う。今日の一首で言えば、「たてがみ」の質感や「触れる」ということの象徴性、「青空」の色や「思い出す」ということの語義・意義などをもっと細分化し、こまやかに歌を彫り上げていくという方向があってもよいし、「わたしのこと」というその「こと」のあたり、その存在のありようをもっとこまかく規定し深めていく方向性もありうる。しかしこの歌はあくまでも景や思いを大きくとらえていて、そういった方向に舵を切っていない。そして、こまかく彫り上げるということをこの歌に求めたくなるような気持ちにも、すくなくとも僕はならなかった。それはきっと、〈歌の内容〉と〈歌に配された語のひとつひとつ・構成・韻律〉とが、読者の(僕の)恣意によって引き離されることがない、あるいは、読者のあいだにある共同幻想・一般論を不用意に喚起することがない、ということによって現れている事態だと思う。つまり、歌の提示する思想や景が、歌の主体の〈個〉を一切離れず、どろどろした共感や感情移入を誘わず、あくまでも〈個〉の歌としてのオリジナリティを保っている、ということ。対象が描かれたその瞬間やその場の現場性・臨場感に溢れている、ということ。ここでこの歌を持ち出すのはどこかずるいのだけれども、歌集中で大森が、

 

細部を詠めという声つよく押しのけて逢おうよ春のひかりの橋に

 

と高らかに宣言したその「逢い」は、だから十二分にこの歌集において達成されていると僕は思う。「春のひかりの橋」は、それ単体では観念と抽象性にまみれているけれども、大森の歌においては、大森の世界にのみ存在する、唯一無二の「橋」として輝く。それ以上でも以下でもなく光を放つ。細部が切り捨てられているのではなく、「春のひかりの橋」としか言いようのないものとしてそこに架かっている感じがある。現実の具体を引き寄せない「橋」だ。

 

大森の歌をほんとうに分析するには、だから、「押しつけがましくない」ということの語の構成上の根拠や、大森の歌の言葉のいかなる配置が「現場性・臨場感」を担保しているのかということや、そもそも短歌にとっての「細部」とはつまり何なのか、といったことを一首一首に沿って検討し、その証拠を積み重ねていく必要がある。それによってしか大森の歌の特殊性を論じることはできないはず。しかしその手続きがいかにも複雑だ。わずかでもそのあたりのことを考えてみたいのだけれども、そのわずかを言うにも長くなるので、つづきはまた明後日。