平岡 直子


降圧剤一錠を嚥む夕まぐれ 五階まで来た蟻を祝へり

岡井隆『鉄の蜜蜂』(KADOKAWA:2018年)


 

血圧を下げる薬、嚥下という動作、夕まぐれという日が落ちる時間帯。さまざまなものがやや苦しげに押し下げられる上句への鈍い反発のように、下句では蟻が五階までのぼってくる。
おそらく作者にとっては五階が自宅でも、蟻目線で考えるとありえないほど高いところだ。そこに到達した蟻のたくましさを讃える下句には、サバイバルの同士として蟻に感情移入しているような表情がある。しかし、蟻は自然に五階の高さに来ることはないのではないか。この蟻はおそらく自力でこつこつと登ってきたわけではなく、人によって運ばれてしまったのだろう。人や人の荷物にくっついて、エレベーターに乗って。小さな蟻がマンションのなかを運ばれる様子は、たとえば薬の成分が体内を循環する様子を連想させる。つまり、作者が無意識に自分と同一視しているのは蟻よりもマンションのほうなのではないだろうか。
のどかな口調で祝われているけれど、ほんとうは蟻にとっては五階にいるのは不幸である。巣を少しずつ地下に掘り下げる蟻こそがこの上句にいるべき生き物なのに、生態に不適切な五階に迷いこんでしまった。この蟻は今後どうなるのだろう。命に対してどこか不穏な歌でもある。

 

なかなか実証しようのない問いだけど、作者名が欠けた歌集を読んだ場合に、その作者を特定することはできるものなのだろうか、ということをときどき考える。歌集の主題によほどつよい特徴がないかぎり、たとえば二、三人くらいまでは絞り込めても、完全に特定するのは意外と難しいものなのではないか。著名な歌人の歌集であっても。そして、短歌はそれでいいのだと思う。自分の文体を持つのと、文体を作者名に奉仕させるのはべつのことで、後者は定型の貧しい利用方法だからだ。
わたしにとって、その原則の不思議な例外が岡井隆である。たとえ作者名がなくても岡井隆の歌集ははっきりそれとわかるのではないかと思うけれど、主題や文体が硬直しているという印象はなく、岡井はむしろそういった目先の部分は変遷は大きいほうだ。歌集のなかでも一首一首はさまざまな方向を向いている。もちろんまとまった数で読んだほうがその作者の特徴をつかめるというのは普通の話だけど、岡井の歌集についての印象は、単純に一首ごとの小さな情報の乗積が作者像になる、という話でもないように思う。
短歌との契約は基本的には一首かぎりだと思うのだけど、岡井の近作にはありえない大口契約の気配を感じる。一般的な短歌が短冊サイズの紙に一首ずつ書かれているとしたら、岡井の歌は大きな紙にまとめて書かれていて、その紙に書かれているかぎりはひとつの署名の効力がずっとつづくかのような。そして、その署名の効力というのは、作品の背後に一貫性のあるひとりの人間を想定する、という方法とは根本的に違うことのような気がする。もっと肥大化した何かだ。

 

掲出歌でマンションと身体がどこか重なっているのと同じように、家や建物が自分自身である、という感覚が詠われた歌は歌集のなかにときおりあり、それぞれおもしろかった。

 

目ざめたら小さな蜜柑が掌の中にわたしは庭の王だつたのだ/岡井隆
家中にいただきし花が咲きつづくわたしの過去が咲いてゐるんだ
百一歳とぞいふ老いた駅舎から此の若やいだ部屋は生まれた

 

場所、身体、心がシームレスにつながる。もともと、歌のなかに空間をたちあげるのは岡井が得意としてきたものである。初期の名歌、〈父よ その胸郭ふかき処にて梁からみ合ふくらき家見ゆ〉や、〈〈あゆみ寄る余地〉眼前にみえながら蒼白の馬そこに充ち来よ〉などと見比べると、精神的な作風が徐々に即物的になっていく軌跡もみえるようだけど、方法の違いも目を引く。初期の作品では、まず輪郭を定めてそのなかを膨らませる、充填させる、という方法で空間が描かれていたのに対し、近作ではそもそもその輪郭が逸失されているようである。空間を輪郭から描くのではなく、モチーフの配置から空間を既成事実化してしまう。そういった歌を読むと、柱や壁がないのに建っている、内面だけの家をみたかのような不安を感じさせられる。
輪郭がみえないのに空間がある。この感覚は、一首ごとのつかみどころのなさに反して全体では強烈な作家性を感じさせられる作風そのものにつながる印象でもある。ないのではなく、おそらくわたしの想定よりはるか外側に輪郭がある。