秋分の日の電車にて床(ゆか)にさす光もともに運ばれて行く

佐藤佐太郎『帰潮』(短歌新聞社:2000年)
※初版は1952年


 

ゆきずりに見たり小路(こうぢ)はその奥に桜の花が咲きて明るく/佐藤佐太郎

 

きれいな景色をみて「絵葉書みたい」という感想が口をつくことがある。佐太郎の歌を読むときにしばしば抱く屈折した感想はそれに似ている。「これは現実の景色の描写だ」と確信しつつ、同時に「絵のようだ」とも感じてしまうのだ。構図が美しすぎるのだと思う。
この歌も構図への意識をつよく感じる歌。通りすがりにふと目に入った小路の奥に桜が咲いていた、ただそれだけの歌なのだけど、小路の奥の桜が咲いているエリアだけがあかるく描かれることによって、ほの暗いなかに桜へ通る道が一本浮かびあがっているように感じさせられる。思えば自分が進まない横道は意識の上では平べったい絵のようなものだ。そこに奥行きを発見したのだから、作者の意識の上では「絵にリアルな奥行きを感じた」という感覚に近いのかもしれない。その小路をなんども思い返して反芻しているようにも感じられるこの歌は、大切な絵本を開いているような感覚がある。

 

日盛(ひざかり)の道のむかうに華やかに絵日傘売(ゑひがさうり)が荷を置きにけり/佐藤佐太郎
夏の日のかたむきかけし広場(ひろば)には驚くばかり桜が太し
夕光(ゆうかげ)のなかにまぶしく花みちてしだれ桜は輝(かがやき)を垂る
暴風雨ののちの光に屋上にわがいでくればまつはりし蜂
どの窓も金属のごとき光して下のかぜ吹く道より見ゆる

 

一、二首目も絵がかなり決まっている、という印象を抱く。佐太郎の歌はほとんど直線で構成されているけれど、線のコントラストが上手いと思う。細い線と太い線、垂直な線と斜めの線をおしゃれに組み合わせる。掲出歌とあわせて三首目なんかをみると、そうかこの人にとって花とは光だったのか、と早合点しそうになるけれど、四首目だと蜂もたぶん光だし、五首目はそうは言ってないけれどほとんど風を光だといっているようである。たいていのものは光なのだ。光が直線的なものであることは関係があるかもしれない。
風景に対する敬意は線のとりかたによってあらわれ、自分の思いは彩色にこめる、という印象である。だからなのか、決まりすぎていることはあっても構図が非現実的なことはないわりに、色の描写はしばしば変だ。彩色の濃淡や艶に感情の起伏があらわれているのだと思う。「光」はその彩色が極まったかたちでもあり、その光のなかにも細かいグラデーションがある。

 

秋分の日の電車にて床(ゆか)にさす光もともに運ばれて行く/佐藤佐太郎

 

よくしられたこの歌を名実ともに佐太郎の代表歌だと思うのは、すごい歌であるとともに佐太郎の作風を説明しきっている歌であるように感じるからだ。電車の窓という直線的で硬質な枠があり、その枠のなかを光が通る。電車は作者自身のようなものだ。作者の身体、あるいは心が動くとき(そして身体と心はしばしば連動している)、電車が走っても窓枠が変形しないのと同じように歌の構図は乱れないけれど、その枠を通した光は微妙に表情を変え、うつろうだろう。

 

電車の床に着眼するのも、実際には運ばれているわけではない光をあえて主観的に「運ばれて行く」と描写するのも、それなりに巧みな表現なのかもしれないけれど、そんな巧さが名歌を生むわけじゃない。この歌の奇跡は「秋分の日」という言葉のおそろしいほどの効き方にある。秋分の日は昼と夜の長さが同じだとされている日だ。ここに等分というイメージを図形的にあらわしたかのような漢字「日」が含まれているのが美しい。その「日」の先に「電車」があらわれるとき、わたしたちが思い出すのはこの漢字のかたちの窓である。電車の窓。ローカル線でみたことがある、上げ下げすることで開閉できる窓だ。そしてまたこの「日」という漢字は、「床にさす光」の光源を暗示するという役割も担っている。
この歌を読むときに、迷わず昼間の電車を思い浮かべなかっただろうか。夜の電車でも歌意は通る。窓からさす街の灯りかもしれないし、あるいは床を垂直に照らす車内灯かもしれない。それでもこの電車に昼の光を感じ、線路が視界を二分する別アングルの景色まで脳裏をかすめてしまうのは、「秋分の日」によって決定していたことなのだ。わたしはこの歌の「日」の字なら飽きずにずっと眺めていられる。