染野太朗


たてがみに触れつつ待った青空がわたしのことを思い出すのを

大森静佳『カミーユ』(書肆侃侃房、2018年)

 


 

一昨日のつづき。

 

たとえば、大森の歌の「現場性・臨場感」にかかわるひとつに(しつこく断っておくけれど、これはあくまで「ひとつ」であって、大森の歌のすべてに当てはめることはできない)、「身体を遊離する時間」ということが挙げられると思う。大森の第一歌集『てのひらを燃やす』に、

 

君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている

 

がある。主体が時間軸上のどこにいるのか、単純には決められない。「死後」と言う限りにおいて主体は今、生のとある地点からそれを見ているはずだけれども、結句の「まだ」によってそれは唐突に揺らぐ。「まだ」の提示する時間の幅が、生前の時間のほうにあるのか死後の時間のほうにあるのか、それともどちらとも言えない地点からの認識なのか、決定することができない。「まだ」が奇妙な時間軸を一首にねじ込む。すると結果として主体の身体が、現在と未来(死後)を結ぶ線上のどこにあるのか、その一点を決められなくなる。身体は身体である以上、一点にしか存在できない。それが具体的な肉体である。ところがここに現れている身体は、時間軸上のいくつかの点において、しかも同時に存在しうる。結果としてこの身体は、はじめから死後の世界にいるようにも、歌の最後まで変わらず生前としての現在にいるようにも、その両者をまったく別のところから俯瞰でとらえているようにも見えてくる。読みの視点をわずかに変えるだけで、あるいは五七五七七のどの句を中心に読むかを変えるだけで、それは起こる。そしてさらにその結果として、身体が身体であることを止める。意識だけになる。「まだ揺れている」と思う意識、あるいはそのように言う声だけが浮遊する。

 

大森の歌においてはときに、そのような事態が生じる。「時間」が、歌の言葉を通過することによって、それを感知する身体から遊離する。「今」がどこを軸にした「今」なのか、見えにくくなる。そして身体が消え、意識あるいは声だけになる。

 

見たこともないのに思い出せそうなきみの泣き顔 躑躅の道に
だって五月は鏡のように深いから母さんがまたわたしを孕む
冬空に根を張るようなつよい声それっきり声というものは見ない

 

ねこじゃらしの歌のようにはっきりとした「時間の遊離」とか、あるいは時間軸の複数化はこれらの歌には見られないけれども、大森の歌にはどこかしら、時間のバルブが緩んでいるようなところがあって、そのことが主体に独特の視点や思考、独特の身体を与えているような場合がある。一首目、ふいに未来を先取りしてしまったからこそ逆にその泣き顔を「思い出せそう」と言って過去のものとして感受したのではないか。「躑躅の道」は、躑躅の色彩や群れ咲く様子が泣き顔に輪郭を与えると同時に、〈今・ここ〉の現場性を確保する。しかしその現場において訪れた直感は、見たこともないのに思い出す、という、記憶をめぐる時間軸上の混線として表出している。二首目の「また」が担う「わたしを孕む」の異様、三首目、「それっきり」が担うその後の時間の「声」の不在、視覚への転換には、それぞれまったく異なったあらわれ方ではあるけれど、主体をめぐる特殊な「時間」のありようが関係しているのではないかと思う。

 

また、わかりやすいところでは、たとえば『てのひらを燃やす』の、

 

これでいい 港に白い舟くずれ誰かがわたしになる秋の朝

 

『カミーユ』の、

 

唇(くち)もとのオカリナにゆびを集めつつわたしは誰かの風紋でいい

※( )内はルビ

 

といった歌に表出している、自分の交換可能性や輪郭の淡さを確認するかのような、それを望むかのようなスタンスが、「押しつけがましくない」という大森の歌の印象を支えているのかもしれないし、にもかかわらず歌の言葉そのものの強さの保たれている点などは、その理由などを詳細に分析したくなるのだけれども、とりあえずこのへんで終えます。

 

ふたたび今日の一首。自分自身が野生を思い出そうとしているのではない。青空の側から自分の野生が見い出されるのを待っている。大らかな言葉づかいは一首に骨太な印象を与えるが、内容はあくまでも受け身である。そして、その「骨太」であるということは、いくら態度が受け身であってもそこに、「謙虚」だとか「人間存在の小ささを痛感している」とかいった、いかにも類型化した〈自己〉や安っぽい自然賛美を引き寄せない。結果として、野生への願いは保たれながら、主体の意思や態度よりも「青空」、そして「たてがみ」が存在感をもつ。「わたし」が二の次であるという志向と歌の言葉のたたずまいが、つまり、歌の内容と言葉のフォルムがそれぞれ別に、しかも決して乖離することなく、歌の主体にオリジナルの輪郭を与えている。さらにこの一首には、実は特殊な時間が流れている。「青空」の変化を待つとは、いかなる時間の長さだろう。人間の身体によって感受される時間ではなく、「青空」にとっての時間に身体を合わせなければ、この「待つ」は成り立たない。この歌は、僕たちが一般的に信じる「時間」以外の特性を、それがどういったものかは明らかにしていないけれども、まぎれもなく含む。その「時間」が青空をより雄大なものにする。

 

ああ斧のようにあなたを抱きたいよ 夕焼け、盲、ひかりを掻いて
樹のなかに馬の時間があるような紅葉するとき嘶(いなな)くような
欲望がフォルムを、フォルムが欲望を追いつめて手は輝きにけり

/大森静佳『カミーユ』