平岡直子


薔薇色の馬ゑがきたるワンピース着たるをみなごちちははを捨てよ

水原紫苑『えぴすとれー』(本阿弥書店:2017年)


 

〈ちちははを捨てよ〉とはなかなか激しい物言いである。水原紫苑の最新歌集『えぴすとれー』は荒々しい歌集だった。水原の歌集には、ひたむきな歌集、打ちひしがれている歌集、凛とした歌集、素っ気ない歌集、いろいろな表情の歌集があるけれど、荒々しい歌集がいちばんおもしろいと思う。わたしが水原の歌集のなかでもっとも荒々しく、もっともおもしろいと思うのは『客人』である。
『客人』の荒々しさは内向的なもので、作者自身の内面の嵐が作品に反映されたような歌集だったけれど、対照的に『えぴすとれー』の荒々しさは外を向いている。社会情勢の荒れた部分が反映された歌集なのだ。そして、それは歌集のタイトルに端的にあらわれていて、歌を自分の内側に招き入れるような「客人」というタイトルに対して、今回の「えぴすとれー」はギリシャ語で「手紙」という意味らしい。どこかに宛てて書いて差しだす手紙。「客人」を待つのとはちがって能動的な態度である。
あとがきには〈歌は、存在非在のすべてに送る手紙でありたい〉とあり、つまり手紙の宛先は具体的には名指しされていないのだけど、わたしはこの歌集に収められた歌の多くに葛原妙子に宛てた手紙を見出してしまう。

 

天体は新墓(にひはか)のごと輝くを星とし言へり月とし言へり/葛原妙子
星と月雙つの墓を求めたりわがたましひの割れゆく秋を/水原紫苑

 

あきらかに葛原の歌への応答のようにつくられているこういった歌もあれば、

 

星々と虹はいかなる契りにてかくも妙(たへ)なる手紙交せる/水原紫苑

 

考えすぎだと思うけれど、こういった歌の「妙」の字も反応してしまう。水原にとって葛原の歌とは、星々と虹が交わす手紙のように感じられた、という意味の作品なのではないかと。

 

そう連想していくと、掲出歌の「をみなご」が醸し出すある神聖な雰囲気には、たとえば

 

この子供に繪を描くを禁ぜよ大き紙にただふかしぎの星を描くゆゑ/葛原妙子
卵のひみつ、といへる書(ふみ)抱きねむりたる十二の少女に触るるなかれよ

 

あたりの歌の「子供」「少女」の異様さと通じるところがあるし、

 

奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり/葛原妙子

 

を裏側から逆向きになぞったのが掲出歌だとも思う。
葛原の歌では消えていく馬は、水原の歌ではくっきりとしてワンピースの上にあらわれ、しかもこちらの馬はプリントであるかぎりは走り去ることもできない。葛原の歌では消えていく馬と反比例するように「子孫」の色が濃くなるけれど、水原の歌では馬の鮮やかさとこちらも反比例するように「祖先」が断ち切られる。この二首の比較にわかりやすいように、葛原と水原の大きな違いは、葛原は子孫を、水原は祖先を忌避しているところにある。そしてこれは歌の表面的なテーマだけの話ではなく、文体にかかわっている話だと思う。

 

水原の歌を異類婚的だと思う。異類婚というのはおそらく水原にとって大切なテーマで、本歌集でも直接的にその言葉自体が繰り返されるほか、「犬妻」などという言葉も散りばめられているけれど、そのようにモチーフとして表側にでるだけでなく、詩情のつくりかたの核に異類婚へのこだわりがある思う。異ジャンルの名詞を引き寄せて結婚させるような歌は多い。その延長線上で、たとえば掲出歌を華やがせているのは植物である「薔薇」と動物である「馬」との異類婚なのだ。「薔薇色の馬」という言いかたからはいっしゅんなんだかファンタジックな生きものを思い浮かべるけれど、よくよく考えると薔薇色というのは馬の色としてはそれほど現実からかけ離れていないことに気づく。たぶんこのワンピースに描かれている馬はなんということのないふつうの馬だろう。だけど、「薔薇色」という言葉のイメージからは、幸福であかるい馬であることが想像される。言いかたひとつだ。「ただの馬の柄のワンピース」から作者の筆によって異類婚的なよろこびが引き出される。そして、掲出歌の「をみなご」は薔薇と馬の子どもになったのだから、もうちちはははいらないのだ。こういった表現の根源には「出会う」ということはよろこびである、という素朴な感覚があるように思う。怒りを書くときも、かなしみを書くときも、喪失を書くときも、水原の歌で書く方法として使われているのはそのよろこびだと思う。このよろこびは、葛原の歌にはない感覚である。

 

今し來むゴーヤー革命さみどりの光の蔓(つる)もて議事堂を埋めよ/水原紫苑
ちはやぶるオリンピックを返上す幻聴といふ薔薇はゆたけし
スマホ持つくわんおん美(くは)し歩みつつ大慈大悲の光こぼるる

 

『えぴすとれー』には現実の事件、人物に取材した歌も多い。現代的なモチーフを中心に据えた歌もある。それらのほとんどが古風で美的なモチーフと組み合わされている。現代的、時事的なテーマを古風な世界観に接続するのは、その組み合わせの外連味ばかりが目を引くという惨事が起こりがちだけれど、水原の歌ではそういった失敗は起こっておらず、それどころかある凄みを感じさせられる。その理由も、二物衝突的というより異類婚的な詩情の立ち上げかたにあると思う。位相のちがう言葉同士が歌のなかで出会い、関係をはぐくむ。歌の内容がたとえば政治に対する怒りをどれだけ率直に表明していても、読者は歌のなかのマリアージュをうっかり祝福したくなるのではないだろうか。