染野太朗


おびただしい黒いビーズを刺繍する死よその音を半音上げよ

服部真里子『遠くの敵や硝子を』(書肆侃侃房、2018年)

 


 

地下鉄のホームに風を浴びながら遠くの敵や硝子を愛す

 

歌集のタイトルになったこの歌は、しかし、「遠くの敵や硝子を」というフレーズのみの印象よりずっとおとなしい感じがする。歌における「敵」に、敵という感じがあまりない。「敵であるからこそ愛する」「敵であっても愛する」というより、たまたまそれが一般的には「敵」とカテゴライズされるものだった、といった程度のものに思える。これはきっと「愛す」ということよりも「地下鉄のホーム」の影響によるのだと僕は思う。それはあまりにも「日常」のものだ。もちろんそれは「地下」ではあるけれど、決して負のイメージ(あるいは正のイメージ)を持つものではない。地下駅のホームのあの「風」に、ドラマチックなイメージはなかなか見い出しにくい。だからこの主体はヒーローやヒロインのイメージをまといにくいし、結果的に「敵」が過剰に敵にはならない。むしろその語の本来の意味である「対立者」といったイメージは薄れている。だから「遠くの」と言われても「愛す」と言われても、その遠さや愛の程度に、なかなか感情移入することができない。読者として「風を浴びながら」のあたりにすこし負荷をかけないと、例えば服部の第一歌集『行け広野へと』の、

 

野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた
広野(こうや)へと降りて私もまた広野滑走路には風が止まない

※( )内はルビ

 

といった歌に読み取れたような、凛と張った高揚を得ることはできない(第一歌集で「広野」や「滑走路」に広々として吹いていた風が「地下駅」の風へと変化し、「戦って勝つ」という宣言は「愛す」という調和へと変化した、というようなところを起点に歌集の性質を語るべきなのかもしれないけれど、そういった内容面の読み取りについてはここでは措く)。同様に、この歌における「硝子」に、ガラスの脆い(あるいは強い)イメージや、内包している光の複雑な放出を期待して読むのは、無理なのではないかと思う。

 

ところがタイトルとして「遠くの敵や硝子を」というフレーズのみを読むと、「敵」はあくまで敵であり、「硝子」はその敵への心情をテコとして不穏な、そしてどこかうつくしい光を引き込みやすくそこに登場する。

 

そのようなことを考えながら思うのは、服部真里子は、名詞をはじめとした自立語のイメージを自在に操ることのできる(と読者に思わせることができる)、まったくふしぎな歌人だ、ということ。というか、自立語同士の取り合わせにおいて、ほとんど驚異的なセンスと計算で一首全体のイメージやそれが見せる世界を、これでもかと決定し、個性的に展開していくことのできる作家のように思える、ということ。

 

服部の歌を、題詠的だと思う。題詠的、などという言い方をするといかにも技術のみで作っている、小手先だけで作っている、心がない、と思われてしまうかもしれないけれど、実際の歌から見えてくるのはほぼその真逆だからおどろく。題詠と言っても、服部が題をどこかから受け身で与えられているという感じはない。服部は題そのものをみずから繊細に選んでいる。その選定の段階から服部のセンスは発動していて、その「題」が歌のなかで最大限活きるのはどんな場合か、その最高の解答例を歌に示している、という感じがする。大げさに言うと、服部の歌のなかではすべての自立語がそのポテンシャルを最大限に引き出される、という感じ。それぞれの自立語が〈意味〉として抱えているそれぞれのイメージを保ったまま、歌のなかでさらに何かが付加され、更新され、輝きを増す。

 

あかときの雨を見ている窓際にしずおかコーラの瓶をならべて
今宵あなたの夢を抜け出す羚羊(れいよう)の群れ その脚の美(は)しき偶数
見る者をみな剥製にするような真冬の星を君と見ていつ
春ひとつゆくのを待てり十本の指にとんがりコーンをはめて
鳥葬を見るように見るあなたから声があふれて意味になるまで
ひかりよ なべて光は敗走の途中 燕にひどく追われて

/服部真里子『遠くの敵や硝子を』

 

歌集のほんの前半から引いた。「しずおかコーラ」「偶数」「剥製」「とんがりコーン」「鳥葬」「なべて、敗走」といったところが独特で、それが、歌全体の質感を決定している。こんなところにその名詞や副詞が来るのか、と思う。それらが輝いて見える。そのような文脈にその語が置かれるのか、と思う。それで、ここでは特に「なべて」の使用にわかりやすく現れているのだが、これは「すべて」という意味を抱えているわけだけれども、その意味とは別に、どこか散文的、あるいは〈文語〉的な雰囲気をまとっていて、それこそが歌の質感を決めている、ということが重要だと思う。意味内容だけが歌を支えているのでは決してない。そういった、一語がまとうものの全体が歌の雰囲気や内容を統べていくありようを指して僕は「題詠的」と言ったし、「ポテンシャルを引き出す」と言った。

 

さらに重要なのは、しかし実は、一首一首が、それらの自立語を歌の主役にするような構造にはなっていない、ということ。一首目で歌の主役となっているのはあくまで「見ている」ということだ。「見ている」というその眼差しと時間(あるいは時間帯)こそが歌の中心である。その眼差しや時間を飾るように「しずおかコーラの瓶」がある。二首目、脚が「偶数」であることを再発見することによって、そしてそこに「美しき」という直接的な形容を施すことによって、それがどんな「羚羊」であるかを決定する。そして最終的には、それを「夢」に抱えていた「あなた」こそが歌の中心に据えられる。三首目以降も、僕が上に取り出した各語が中心にはならないような構造になっていると思う。……そういう点でも、いかにも題詠的だと思う。題のあしらい方の巧みなのだ。そして、だからこそ一首を改めて眺めたとき、逆説的な言い方になるが、それを「題詠的」と思うことができない。小手先だけ、心がない、などと思わない。その眼差しや思想、描かれたものごとの美しさやかわいらしさ、おぞましさや無惨に、読みのピントが合っていく。

 

そしてそのような、巧みさを支えるのが、服部という作者がもつある世界観と、助辞の扱い方だと思うのだが、そのあたりはまた別の機会にどこかで書きます。

 

今日の一首は、「絶対青度」という連作にある。

 

名を呼べばよみがえりくる不凍港まどろみながら幾たびも呼ぶ
父の髪をかつて濯(すす)ぎき腹這いの光が河をさかのぼる昼
死者たちの額に死の捺す蔵書印ひとたび金にかがやきて消ゆ
柘榴よりつめたく死より熱かったかの七月の父の額よ
うす青き翅もつ蝶が七月の死者と分けあういちまいの水

/服部真里子『遠くの敵や硝子を』

 

この連作と、歌集中その次の「数かぎりない旗」という連作には「死」ということがテーマとなって色濃くあらわれているように思う。しかもそれはおそらく「父の死」だろうと僕は解釈している。上に挙げた歌では「不凍港」「腹這い」「蔵書印」「石榴」「いちまい」といったあたりに(でもこのあたりは僕の恣意的な選択だから小声で言いたいのだけれど)、上に記した「題」のようなものを僕は感じる。連作において、それらが総力をあげて、「死」を飾ろうとしているように僕には思える。今日の一首においては、「半音」という語が「死」を彩ろうとしているように感じられる。死という「概念」に「聴覚」を持ち込む。本来それらは結びつかないから、結果として「死」がよりいっそう観念として際立つ。主体だけの個性的な思考や感受の回路に「死」が置かれる。そのようにして、この「死」を、唯一無二のものとして言葉に定着させているように僕には思える。「おびただしい黒いビーズを刺繍する」には、おぞましいようなイメージとともにみずから(あるいは死者本人)を覆ってしまう「死」が見えてくるけれども、それにされるがままにならない主体が見えてくる。半音上げよ、といって死に命令しているのだから。上に僕は「それぞれの自立語が〈意味〉として抱えているそれぞれのイメージを保ったまま、歌のなかでさらに何かが付加され、更新され、輝きを増す」と記した。この連作にあらわれる「死」に対してもそれは当てはまると思う。死ということはあまりにもありふれていて、普遍的だ。けれどもそこにあるのは、唯一無二の、おそらく「父」の死だ。服部の歌は、その死を、「死」という普遍的なものとして扱いながら、しかも唯一無二の個別の「死」として輝かせているように思う。服部の歌のなかで「死」はあまりにも観念的だけれど、その方法が、「観念」とひとことで片付けるにはためらわれるような質感を「死」に与えているように思う。……蛇足だけれど、これもまぎれもなく「悼む」ということのひとつの形なのではないかと思った。個性的な挽歌だ。