なんと俺、短い名前がだいすきで「手」と名乗る女の胸を揉む

ナイス害『フラッシュバックに勝つる』(私家版歌集:2017年)


 

わたしは現代短歌にとってもっとも重要なキーワードは「笑い」だと思っている。思いつづけている。

 

二〇〇〇年に刊行された穂村弘の短歌入門書『短歌という爆弾』がこの二十年近くのあいだに短歌へ与えた影響の大きさは言うまでもないけれど、なかでも「共感と驚異」の章に書かれていることは、その功罪両面を含めてとくに大切な指摘でもあり、人口に膾炙した方法論だともいえるだろう。

 

短歌が人を感動させるために必要な要素のうちで、大きなものが二つあると思う。それは共感と驚異である。(『短歌という爆弾』)

 

ではじまるこの章で述べられる理論は、私見では「短歌」を「お笑い」に交換してもほとんど成立する。この章で穂村は俵万智、石川啄木の歌を例に挙げながら、それぞれの歌のどの部分が驚異で、どの部分が共感なのかを分析しつつ、その驚異の部分を「あくまでも共感へ向かうためのクビレ」とする。

 

(……)ここに含まれる驚異の感覚は、それ自体の純度を追求されてはいないという点にも注意したい。つまり読者の想像力が全くついて来られないほどの驚異的なものは初めから目指していないのだ。(『短歌という爆弾』)

 

この理論において、驚異とは共感に挟まれているものであり、共感に奉仕するものなのだ。

 

富沢:すみません、アンケートにご協力願えませんか?
(中略)
伊達:はいはい。
富沢:えー、このアンケートを何で知りましたか?
伊達:おまえだよおまえ! おまえから今聞いたよ!  (サンドウィッチマン「街頭インタビュー」)

 

あるお笑いコンビのコントの一部を例に挙げてみる。「街角でアンケートを頼まれる」という場面設定は共感に寄せられていて、その先の意表を突く質問に驚異があり、そして質問に対する突っ込みはふたたび共感を誘うものである。この一幕の笑わせるポイントは驚異の部分にあるけれど、共感に挟まれていなければこの驚異は成立しないだろう。共感ベースの設定に乗せて、いわゆる「ボケ」が驚異を担い、「突っ込み」が視聴者の代弁として共感を担う。コントも漫才も基本的にはこの構造のさまざまなバリエーションが、ある物語、ある話題の筋に乗せられたものである。リズム、テンポ、流れが重要視されるところ、ときに話者のパーソナリティや来歴が大きな役割を果たすところも含め、短歌の構造に酷似していると思う。あるいは大喜利や落語、漫談、ネット上で流行るおもしろいコピペや、一般人が画像をもとに大喜利をする「ボケて」など、「笑い」を消費するコンテンツは溢れているけれど、それらひとつひとつをよくみると、笑えるポイントにはかならず驚異を挟む共感の構造を発見することができる。
仮にすべての秀歌が驚異と共感でできているのなら、お笑いに対するアドバンテージは短歌にあるだろうか。ポピュラリティがすべてではないけれど、お客さんの数はあまりに桁違いだ。だけど同時にお笑いの需要の大きさには、世界の秩序が言葉によってズレる瞬間が見たい、という欲望を抱いている人の多さがあらわれているし、それは短歌を含め詩の役割である、という闘志のような希望のようなものも感じる。

 

掲出歌はナイス害による私家版歌集『フラッシュバックに勝つる』より。この歌集は基本的には相聞歌がベースになっており、それも片恋や失恋などの切ない雰囲気の歌が多く、そこから徐々に立ち直っていくというまさに歌集名通りの物語性が読みとれる歌集なのだけど、そういったテーマよりも注目したいのは笑いと短歌の接点を模索した形跡があるということだ。 あとがきによると著者はネット大喜利をライフワークにしていたこともあるとのこと。

 

サンリオと角川文庫がコラボしたほむほむプリンの「なんかください」/ナイス害

 

収録されている歌のなかでいちばんお笑いに寄っていると思った歌はこれ。「共感と驚異」理論を採用した上で、そのポエジーを笑いに直訳したような歌だと思う。ほむほむこと穂村弘の著書である『短歌ください』と、サンリオのキャラクターである「ポムポムプリン」の架空のコラボを妄想するこの歌は、「なんか」の部分の脱力感が絶妙におもしろい。雑で、貪欲で、とぼけている。この組み合わせはなかなかよくできていて、組み合わせることによってどちらについても本質的な部分を炙り出している。「ほむほむ」という愛称のどことないキャラクターっぽさや、それゆえの不気味さ、サンリオキャラクターの「コラボ」に対する腰の軽さ。読者は「ありそう」と肯きながら、「なんか」と「短歌」の果てしない遠さに虚を衝かれることになるだろう。
この歌の唯一の問題点はこのおもしろい一文が短歌形式をとっていることの必然性に欠けるということで、この歌はおもしろみだけでできていて「作者の顔」がみえない。作者の顔がみえない作品に対してもどうにかして作者の顔をねじこんでしまうのが短歌の読者の習性で、成果だけを差し出していることからの逆算によって想定されてしまう「得意げな顔」をこの歌は逃れられていないと思う。また、定型に沿ったテンポのいい展開が結句の値段を釣り上げていくつくりは、この「オチ」を些か予定調和にすらみせてしまっているかもしれない。つまり、この歌から感じられるのは、直訳の可能性と限界の両方だ。

 

木のスプーン戸棚の奥から取り出して幸せに目がくらむちゃうだぁ/ナイス害

 

逆に短歌に寄っていると感じたのはこういう歌。いっけんトリッキーにもみえるこの結句は序詞や掛詞といった古典的な技法の発展形であり、名詞的な意味と動詞的な意味の重なりかたのバランスも巧みである。また、歌の背後に人間みを感じるという点でも上のほむほむプリンの歌に比べてずいぶん短歌的な一首。この歌に連なる秀歌は歌集中に多く、なかにはかなり高度なポエジーを感じる歌もあるので、この作者はもしかしたら今後はそういったポエジーを極めていくのかもしれないけれど、わたしの個人的な関心はほむほむプリンのその先にあるのだった。

 

なんと俺、短い名前がだいすきで「手」と名乗る女の胸を揉む/ナイス害

 

今日の掲出歌はいわば「驚異で共感を挟んでいる」歌だと思う。みたところ一首には驚異しかなく、切り出し方に驚き、「短い名前が好き」という珍しい嗜好に驚き、その短い名前が「手」だという(しかも自称)ありえなさに驚き、結句の急展開に驚き、驚いているうちに一首が終わる。
しかし、精査していくと、現実に起こり得ない部分はどこにもない。論理展開も筋がとおっている。「手」という不思議な名前にせよ、なにしろ自称なのだから、ハンドルネームとかもあるし、とまで考えたところで、「ハンドル」と「手」の近さに気づかされたりする。そしてその細かい「起こり得る」「論理的に正しい」がのりしろになって、次々に繰り出される驚異を意味不明な文字列にせずひとつながりのまま宙に浮かせているのだと思う。人は驚異なくしては共感できない、という穂村弘の発見はかなりすごいもので、それに対してなんだか当たり前のことなのだけど、人は共感なくして驚けないのだ、ということを感じさせられる。
畳みかける驚異が演出するのは速さだ。この歌はとても速い。人が速さにあ然とするときの一瞬の真空は、「笑い」に近いものだと思う。