染野太朗


人のために使ふことなしひと月を流れていきしお金を思ふ

澤村斉美『夏鴉』(砂子屋書房、2008年)

 


 

『夏鴉』をひさしぶりにぱらぱらと読み返していたら、一首一首の詩性や思考の深さにちょっと圧倒されてしまって、なにか書きたいけれど書くとまたきりがなくなるな、と思ってしばし途方に暮れた。

 

読み返していたらいろいろと思い出してきた。『夏鴉』にはそもそも、出版されたそのときにすでにさまざまな点で圧倒されていたのだけれども、当時とても印象に残った歌のひとつが、お金にまつわる歌であった。お金のことというのはもちろん、短歌にもあるいは文学全般にも、素材としてそれほど珍しいものではないと思うのだけれども、扱い方によってはちょっと卑しく映るというか、それに対する欲求は、他人のそれであってもなんとなく覗き込みたくないようなところがあって(この歌集や今日の一首を含む澤村の角川短歌賞受賞作「黙秘の庭」(2006年)が発表されたはほんの10年程前のことだけれども、今そのあたりの感覚というのは、個人的にも時代的にも、だいぶ変化しているとは思う)、歌の内容がどうであれ、それを詠み込むということそのものにちょっとびっくりしたのだった。けれどもお金のことというのは、欲しいとか欲しくないとか、そういった単純な捉え方など超えて、多くの人の感情や思考に直結する大事なものであるし、歌が避けてとおれる素材であるはずがない。『夏鴉』に含まれるお金の歌は、一首や二首ではない。

 

日記よりも出納帳は明るくて薄桃色の線の平行
減りやすき体力とお金のまづお金身体検査のごとく記録す
お金がほしいと本気で思ふ日がつづく昨日は椿の黒き葉のそばに
人のかたくなは俯くときにあらはれるATMのまへの老若
失はれつつ残るのが記憶ならあらはなまでの数字の記録
生魚のかへす光があをかつた 財布に魚を仕舞ふごとくす
手の平に蝌蚪のつてゐるたのしさの十円玉が二、三枚ある

 

たとえば、貧しさ、という観点でお金にまつわるあれこれを捉える歌はもちろん多いけれど、それそのものを素材とし、それを起点に場面や感情の輪郭を描く澤村の歌は、腹が据わっている、という感じがして本当に好きだった。澤村の歌全般に今でも感じる、いま見つめるべきを描く、あるいは、見えてしまったらそれは見なかったことにせず描く、という感じがここにもあらわれているように思う。お金を詠むことが、みずからの内面と向き合うことに直結している。二首目、「身体検査のごとく」という比喩はいたってわかりやすく簡素とさえ言えるけれど、自分という存在そのものを数値化するときのあの数字の質感を思えば、そこから逆に照らして、お金というものがどのように僕たちの生活や心情にかかわっているか、おのずと見えてきてしまう。四首目、はじめてこの歌を読んだときは「たしかにATMに並ぶ人たちの感じには、かたくなとか俯くとか、そういう独特のものがあるよな」と、景をうまくとらえた歌としてのみ感想をもったけれど、これはやはり、「老若」にかかわらずお金を前にしたときの僕たちの態度のひとつを、ほんの一枚の景をとおして普遍化しそれをじわりと伝える、ある迫力をもった表現なのだと今では思う。五首目「失はれつつ残る」という発見に至る思考の長さを思えばそこに、お金と向き合う、つまり特に『夏鴉』の歌にあっては、自らの内面と向き合うその長さと深さそのものが見てとれるのはあきらかだし、紙幣を「生魚」に見立てた六首目には、お金への執着のようなものがほの見えながら、特に「仕舞ふごとくす」あたりの、助辞の省略の感じもある、簡潔かつ強いフレーズが、紙幣にふしぎな躍動感を与えていて、読み方によってはたのしげな雰囲気をさえかもしだす。人間関係の機微や社会的事件を見つめるときの澤村のたしかな眼差しが、「お金」ということにむしろ血を通わせている。

 

『夏鴉』の栞文で島田幸典は、今日の一首を引用しながら、「〈お金〉は身近であるだけでなく、物質・精神両面で日々の生活に絶大な作用を及ぼす。澤村は貨幣のもつ〈私〉と世界との関わりを映すメディアとしての意義を再発見することで、素材の拡張に成功している」と言う。「人のために使ふことなし」というこの上二句には、自らに閉じた感じ、自らの内側だけでものごとを循環させる感じ、つまり平たく言えば、結果としての孤独、もっと言えば、社会との断絶、を読み取るべきなのだろうと思う。その断絶が主体をさむざむとさせている感じもある。「流れていきし」という、どこかしらゆるんだような認識による表現がそれを支える。もしかしたらすこし悔やんでもいる。結句の「思ふ」の思考は長く複雑だ。いや、ちょっとぼんやりしているのか。僕がこの歌をはじめて読んだときに思ったのはすごく単純なことで、ああそうか、そもそもお金には「自分のために使う」と「人のために使う」という二種類があるのだな、ということ。また、自分が人のためにお金を使っていないということにこの人はよく気づいたな、ということ。視野が思いのほか広い。そしてすぐ、僕自身は人のためにお金を使っているだろうか、と考えた。そもそも一般的に「人のために使う」というお金はあり得るのだろうか、ということも考えた。そして「自分のため」と「人のため」、使ったときにどのような心身のちがいがあるだろう、と考えた。そのあたりを深追いしていけばおそらく、人間にとって〈交換〉とは何なのか、その意義や価値を考えることにもなるのだろう。……結句の「思ふ」はやはり長くて複雑なのだと思う。

 

お金の歌を例に出したけれど、これに限らずとにかく澤村の歌は、一首一首に読者を引き留める力が強いと思う。さまざまに思考が促される。その「引き留める」ということにおける技術面でのバリエーションもゆたかなのだが、今日はここまでにします。

 

上に記した内容とかかわらないようにも見えるけれど、はじめて読んだとき僕は『夏鴉』の歯や歯医者の歌にもびっくりしたので、それを最後にすこし引用します。「考へぬための時間」、なるほどと思った。

 

考へぬための時間を予約せり秋晴れのけふ歯科へと向かふ
あんぐりと開けたるくちは虚(うろ)なるか少し閉ぢよと言ひしは歯科医
親不知四本を含みこの生は見えぬところで余分が育つ
抜くといふ治療案受け入れがたし三日過ぎるころやはらかな月
歯のために使ふ時間を増やす日々月を眺める時間も増える

/澤村斉美『夏鴉』
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