きさらぎの雪にかをりて家族らは帰ることなき外出をせよ

小中英之『わがからんどりえ』(角川書店:1979年)
※引用は『小中英之歌集』(砂子屋書房:2004年)より


 

「家族」というかたまりに対する根源的な不安を刺激する歌である。家族がそれきり帰ってこなかったらどうしよう、という不安を抱きながらひとりで留守番をした経験がある人は多いだろう。
「せよ」という命令形は、家族を倦んでいることのあらわれではなく、不安の延長線上にあるものだと思う。起こってほしくない想像を凝視することで、だんだんとそれが望みであったかのようにすり替わってしまう。孤児になる妄想をしたことがある人、そこには不思議と甘い陶酔感があったことを覚えている人も多いのではないだろうか。内容の不安と、確信に満ちたあかるい語尾。おそれと希望の境界線の淡さを思い出させる一首だ。
雪は深い印象。きさらぎ=二月が寒さの厳しい時期であるという理由もあるけれど、この歌のなかでは音のつらなりが視界に雪を立ち込めさせるようにも思う。上二句でアクセントのように細かく差しはさまれるi音はときおり横向きに吹きつける風のようだし、下三句の重力を感じさせるa音、とくに「か」の音の繰り返しは、垂直にたんたんと降る雪を想像させられる。
この家族はどこへ行ってしまったのか(と、サスペンスの惹句のような口調で話をつなげたくなるのは、この歌のキャッチ―な不穏さのせい)、同じ作者の作品をもうすこし読んでみたい。

 

枯野より枯野へかけて官能のごとくに日ざし移ろひゆけり/小中英之
落葉ふむ坂のくだりに海見えて微光の部分 時雨の部分

 

こうした歌から感じるのは、ひとつながりの空間として認識できる範囲がとても狭い作者だということだ。一首目では、ゆったりと日ざしがうつろいゆくのはひとつの枯野と呼んでいいと思うけれど、枯野Aから枯野Bへと分割されてしまっている。二首目では広大な海を微分することで内面に取りこんでいる感じがする。
この狭さは、発展させることよりも守ることを選択する鎖国政策のようなものだと思う。小中英之の歌は、自分の心のことをとても大切に扱っている。心を守る壁のなかで、少ない材料で、反響の濃さや複雑さによって歌ができている。そういった狭さゆえに純度の高い歌にも魅力はあるけれど、狭さ自体が性格になっている歌をおもしろいと思う。たとえば、

 

鶏ねむる村の東西南北にぼあーんぼあーんと桃の花見ゆ/小中英之

 

ひとつの村の全容というのはおそらく小中の処理能力をやや超えてしまっている。それゆえに「東西南北」という大づかみな輪郭が示されている上に、村の内側の解像度は落とさざるを得なかった、という感じがする。この歌の奇妙な歪みには、限られた容量、限られた材料のなかでの優先順位があらわれていて、そこがおもしろいのだと思う。
掲出歌で起きている異常事態も基本的にはその狭さによるものだと思う。家族が自分ひとりを残して外出する。彼らがまさに家から出ようとするその場面と関係することはできても、その先、彼らがある範囲の外に出てしまうと自分との接続が断たれてしまう。その結果、「家族の外出」パートと「家族の帰宅」パートのあいだに連続性が生まれないからこういうことになるのだと思う。すべての外出は「帰ることなき外出」であり、またその裏側に同じ数だけ「出かけてないはずの者の帰宅」があるのではないだろうか。