染野太朗


生卵片手で割れば殻だけはこの手に残るきっともう春

渡邊新月「冬を越えて」(角川「短歌」2018年11月号)

 


 

「冬を越えて」50首は第64回角川短歌賞佳作の作品。

 

どうにもこの連作が気になっている。

 

背の高い君のようにはなれなくてきつねうどんを頼んでしまう
文庫本のページの角につぶされて動かぬ虫の名前は知らず
毎日の隙間に思い出されたし 五秒で返事が来ることよりも
サッカーもバレエも辞めて今僕ら仰ぎ見ている塾の天井
コンパスは正しく北を指すけれど受験生としてどこへも行かぬ

 

どうやらこの連作は、中学三年生の受験期から高校生になるまでを描いていて、連作の序盤の歌にあらわれたこういった類いの不全感や軽い鬱屈を指して「いかにも十代らしい」などといってその内容をひとくくりにすることもまったく可能なことではある。「今僕ら」や「受験生として」の構え方など、むしろ作り物であるかのようなクセさえある。ただ、このような歌のなかでも、五首目の結句「行かぬ」はやはり「行けぬ」とはちがうのであって、「行けぬ」といって「~することができない」と言われるよりも、そのことへの不如意やら矜持やらといった心情の揺らぎを引き連れていて、その揺らぎには、読者の読みを深く受け入れる奥行きがあると思う。

 

雨降りの朝は誰かが後ろから抜かしてくれるのを待っている
君と僕を少し遠ざけ去っていく重力波あり極月(ごくげつ)の朝
ここは日本で天使もきっといないけれどパウル・クレーに見せたき夕陽
肩に降る霧雨君は幾粒の魚卵を食べて今ここにいる
リビングの明かりが漏れてくる 僕は守られている 守らせている

※( )内はルビ

 

上に挙げた五首よりもよほど個性的になってくる。雨降りの朝に「誰かが後ろから抜かしてくれるのを待」つ、とはどういう心情だろう。「重力波」「天使」「パウル・クレー」「魚卵」といった名詞そのものが歌の質感を個性的に決定し、また、こまかいことのようだけれども、二首目の初句六音や三首目三句、いないけ「れ」ど、と六音を採って言い据える感じなども、歌の芯を強くしてしかも一首の調べのバリエーションをゆたかにする。五首目の「守られている 守らせている」の、ただちに(おそらく保護者との)立場を入れ替えて広い視野にみずからを定めようとするありようは、すぐれていたとしてももちろんめずらしいものではない。だが、二句から三句にかけての句跨りやそのあとの句割れ、また、「リビングの明かりが漏れてくる」という、場面を確実に伝えながらもいかにも平板な描写は、つぶやくような下の句に読者を立ち止まらせ、深層の心的揺らぎに対する注意をむしろ強く引くのではないかと思う。

 

マフラーを鞄に戻す 僕たちの十五回目の二月が終わる

 

は、選考座談会において永田和宏に「十五歳のシチュエーションがわかりすぎる」と言われていたけれども、戻すものが「マフラー」であることや、戻す先が「鞄」であること、そしてなにより、脱ぐでも入れるでもなく「戻す」であることが決定する動きや象徴性には、「わかりすぎる」とは言い切れない心的な幅をも読みとれるのではないか。また、この歌で無防備に「僕たち」と言いながら、この連作には、

 

擦れ違う友たちだれも笑いおり如月の陽のさせる廊下で

 

といった、「僕たち」とひとくくりにする心性とはやや離れたかのような、客体化された「友」が出てくるところも見逃せない。(しかし、余談ではあるが、このブレにはリアリティがあるとも言えて、そのリアリティを担保するのが、連作があきらかにした「主体はおそらく十五歳である」という設定であるようにも思う。このような一般化が危ういものであると知りつつここではあえて言うのだが、「十代」の心性というのは、このような一貫性のなさにもあらわれうると思うのだ。そして突き詰めれば、それは思春期だとか十代だとかいうことを超えて、実は人間としてのリアルなありようなのだと言うこともできるはず。このあたりのことは上で記した「今僕ら」「受験生として」の構え方にも言える。)

 

取り出された名詞の質感、使われた用言のニュアンス、調べや音のバリエーション、それらが結果として見せる主体の視線のバリエーションの振幅は思いのほかゆたかで、そこに「十代らしさ」が認められはするものの、その一首一首には(連作全体と一首との関係も含め)、読むべき奥行きがかなりの分量で含まれている気がする。

 

今日の一首。結句「きっともう春」はややゆるんでいて、「もう今は春である」なのか「もうすぐ春」なのかちょっとわかりにくいところもある。ということは確認した上でとりあえず、「両手で割ったって殻は残るでしょう」と言ってみる。それで気づくのは、「殻だけは」の「だけ」に込められたニュアンス。両手で割ればきれいにわれて、黄身も白身もきれいに器に落ちる。けれども、もしかしたら、片手で割ればそれが失敗することもあって、黄身白身がぐちゃっと崩れたり、殻もこまかく砕けてしまったりするのかもしれない。そのようすそのものが何かを「失う」ということの喩になっていてもおかしくはない。「この手に」という確認が、卵の殻や中身のぬめりを読者に確認させる。もちろんそれは、主体の、自分の存在の確認のようでもある。

 

そしてその上でやっと言いたいのが「じゃあ、両手で割ればいいのに」ということ。なぜ片手なのだろう。そこに十代ならではの頑なや不器用、なにかしらの屈託があるのだ、と読めないわけではないけれど、そう読んでよいのかどうか。「冬を越えて」という連作からそのような屈託を導くのは、恣意に満ちた荒いやり方であるような気がする。この一首では「片手」であるということが、むしろそういった読者の側の文脈づけを拒んでいるように僕には思える。宙吊りにされた不器用、あるいは不可解が、しかし、むしろ卵の殻と中身の質感をリアルなものにしている。片手であるということそのものが、その動作やそのときに残る殻の感じを、両手のときとの比較で、こまやかに想像させる。なぜ片手であるかはわからないが、片手であるということ自体は生きている。それに驚く。そしてそのリアルさが、結句の「春」を、むしろ春らしくしない。卵の殻と手の感触のほうがよほど目立つ。だから「きっと」が生きる。春を確かめようとする意思と春の実感の遠さが、なんだかリアルなのだ。