残雪は砕いたオレオをちりばめたバニラアイスでもうすぐきえる

馬場めぐみ「過ぎていくもの」(「短歌研究」2011年10月号)


 

「オレオ」は固有名詞。アメリカで生まれたクッキーで、日本でもメジャーなお菓子だといえるだろう。二枚の黒いチョコクッキーで白いクリームが挟まれている。映画やドラマ由来の安易なイメージで、アメリカ人はとにかくオレオが大好き、という思い込みがわたしにはあったのだけど、この文章を書くにあたって検索してみたら「アメリカでもっとも売れているクッキー」とWikipediaに書かれていた。すごい。
「リッツ」などと同じくオレオはお菓子のアレンジにもよく使われる。砕いてアイスに混ぜるのもおそらく珍しい使用法ではない、どころか「サーティワンアイスクリーム」では実際にオレオを混ぜこんだアイスクリームを販売していたこともある。要するにクッキー味のアイスだ。ジャンクで、おいしくて、アメリカで、ちょっと子どもっぽい食べ物、という印象。
そこがわからないとなにもわからない歌になってしまうのでお菓子の説明に文字数を割いてしまったけれど、「オレオをちりばめたバニラアイス」がすぐにピンとくる人にとってはこの歌の見立てに難しいところはなにもないだろう。大雪のあとによくみる、道端に溶け残って汚くなった雪のことだ。排気ガスや埃などが付着して、ところどころ黒くなっている。雪は美的なもの、神聖なものとして短歌にはよく出てくるけれど、あの汚い雪をここまで夢のように良いものに転化した歌はほかにしらない。

 

馬場めぐみは筆圧のつよすぎる歌人である。
二〇一一年の短歌研究新人賞受賞作、馬場のデビュー作でもある「見つけだしたい」は自意識の葛藤が主題になっていて、その頃、若手歌人についての言及のなかに「生きづらさ」「切実さ」などのキーワードがよくあらわれたのはこの作品と無関係ではないだろう。その後、主題の微妙な変遷や、技術の向上などを経ながらも受賞当時からほとんど変わっていないのが、心を直接歌に書き写そうとするかのような歌の作りかたである。一文字一文字に力がこめられていて、その文字が直接なにかを読者に伝えるのだということを信じている。読者を選別はするけれど、読者を疑いはしない、という作風だ。しかし、読者をそのように信頼するのは散文的な態度だ。韻文では空中戦が行われているのだということをかたくなに無視する表情は、歌の内容面での無垢さと一致するところではあるけれど、作者と読者がコードを異にすることにより、歌自身の方向性とは裏腹に伝達性を下げてしまうという問題もある。
掲出歌は叙景歌である。そして、叙景歌であることがその筆圧のつよさを生かし、輝かせているといえるだろう。風景がカーボン紙のように挟まって独自の筆跡を歌に残している。もともと筆圧の弱い人が書いた文字とも異なる、儚さと力強さが両立するきれぎれの文字だ。
この歌はよく読むと、動詞の〈残る〉〈砕く〉〈散る〉〈消える〉風景を説明する言葉のなかに心のありようが埋め込まれているのがわかる。これらは自意識、若さ、天才性、イノセンス、さまざまな〈壊れもの〉を主題とする馬場の作風に順接なものだ。さらに掘り下げると、雪に関係する〈故郷〉というモチーフや、オレオ+アイスに連想する〈幼さ〉なども、すべて馬場が書いてきたテーマに関係する。しかし一文が風景の説明という目的にまっすぐ進むため、その散文性によって歌はいやらしい象徴性をじかに背負うことなく、ただ言葉がみた夢のように歌のなかに気配をのこす。そういえばこの歌に出てくるアイスも、とてもおいしそうなものなのに不思議と味や匂いを感じない、夢のなかの御馳走のようである。見立てが新鮮で巧み、そのくせどこか淡くて幻想的。それこそ今は鋭くつめたくてももうすぐ消える雪のような味わいがある。そしてそれだけでなく、散文的な文体と定型との関係、その可能性を考えさせてくれる一首でもある。

 

会えばまず「めぐだよ」と言う 立ち竦む祖母の“water”になれ、「めぐ」よなれ/馬場めぐみ
妹は雪の予報が嫌だって 降ったっていい式になるから

 

馬場の作品のなかでそれほど数は多くないものの、わたしが個人的に好むのは家族詠である。叙景歌とはまたちがう意味で、家族との距離感は馬場の歌にとってカーボン紙として機能しているのかもしれないと考えるとき、家族という題材の風景っぽさにも気づかされる。

 

佐藤佐太郎は「純粋短歌論」のなかで「一般に表現は限定する事だといってよいが、短歌に於いては、先ず感情生活の中から詩的感動を限定し、それを五句三十一音の形式に限定するのである」といっている。掲出歌のような歌のことだと思う。たぶん。