染野太朗


腕時計くるひ始むるまひるまにゆるく人だかりに分け入りつ

山川築「オン・ザ・ロード」(角川「短歌」2018年11月号)

 


 

「オン・ザ・ロード」50首は第64回角川短歌賞受賞作。ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』が意識されているだろうか。

 

選考座談会で東直子がこの連作について「街中スケッチというか、「私の喜怒哀楽」は敢えて書かない。ちょっと寂しい街の味わいとか美しさをスタイリッシュなやり方で描いたという点では清新でした」「景色を詠みながら、ところどころ実感も入れて読み飽きない。風景が続いているが、確かに作者が歩いて見ている感じがあって、この方法で五十首を詠ませるというのは力がある作者と思いました」と言っている。

 

石垣のひとつひとつの石にあるくぼみに指を添はせてをりぬ
さはさはと葉のこすれ合ふ老木につがひの鳥の声は鋭し
ぶらんこは錆ぶ 鎖されし保育園にふたつまとめてねぢり上げられ
新しきは橋の上より水鳥の浮き上がり来るまでを眺めつ
ゆつたりと尾びれを振りて鯉たちは橋のたもとに集まりてをり

 

連作の10首めから連続した5首を挙げた。これを読むだけでも、東の説明がいかにも簡潔で的を射ていると感じられ、おどろくのだが、ひとつ考えてみたいのは、東の言う「実感」について。たとえばこの5首に「実感」と呼ぶべきものは見られるか。わかりやすいところで言えば二首目の「鋭し」、この「鋭い」という判断は主観によるもので、実感として扱ってよいと僕は思う。また一首目、くぼみに指を添わせたときの指の感触も、それが触覚を介した体感であるという点において、「実感」と考えてもよさそうだ。あるいは三首目、「ねぢり上げられ」とされたときの、錆びたぶらんこの鎖のありようは、それを想像する読者に、窮屈な、凄惨でさえあるような全体的な体感をもたらすものであり、それをこの眼差しの主に返せば、そこにはおのずから、主体が眼差しをとおして得た身体上の「実感」を見い出すことができると思う。付け加えておくが、三首目、初句から「ぶらんこは錆ぶ」と言われただけでもそこに錆びた鎖が見えなくはないけれども、「閉ざされし」でなく「鎖されし」と表記されることで(閉園を明確にするための表記であるにせよ)、ぶらんこの吊り具の鎖の、モノとしての輪郭は強化され、それによって「ねじり上げられ」が景にもたらす力強さは説得力をもち、また強化される。「ぶらんこは錆ぶ」という言い方は、目の前のぶらんこだけでなく、ぶらんこというもの一般についての言のようにも読めて、そこにはおのずから象徴性がにじむ。それが「保育園」のぶらんこであることは、東の言う「街」を、まさに現代のそれとして想像させるだろう。

 

「オン・ザ・ロード」の一首一首は、ほぼ定型を守り、また、五七五七七の拍・リズムをはっきりと感じさせる作りをしている。また、助詞や助動詞の機能を逆手にとって(という言い方は語弊があるけれども)、一首の輪郭をややにじませたり奥行きを与えたりする(たとえば、序詞や省略のなかで重ねられる助詞「の」だとか、切れ目を「の」や「て」で収めてその係っていく箇所を複数化したり淡くしたりするような類い)こともない。そして、そのような方法に乗っかっている内容が「風景のスケッチ」だからだろうか、歌が描く対象の輪郭は明確・明白であり、(一見すると)主観・心情によるニュアンス付けが薄く見え、客観描写、特に視覚を存分に感じさせるそれ、という印象がある。しかも、見たことのあるものを見たことのないもののようにことさらに新鮮に映すのではなく、見たことのあるものを見たことのあるまま、丁寧にその輪郭をなぞっている、という感じがある。だからこそやはり、スケッチ、ということを思う。主観、ということが排されているように見える。

 

実感とは何か、ということを探りたいわけではないのだけれども、しかし、客観描写を基本的なフォルムとして装いながら、東の言う「実感」は、「オン・ザ・ロード」においては、あるいは「ところどころ」というような少ない頻度を超えてそこに見受けられるように思う。そのように思った理由のひとつは、すでに上に記した「くぼみに指を添はせて」「鋭し」「ねぢり上げられ」といったところの内容にあるのだが、もうひとつは、スケッチの徹底を図っているようなフォルムだからこそ、むしろ徹底されていないところ、捨てられているところが目立つ、という点にある。「オン・ザ・ロード」をくりかえし読んでいたら、細部を詠んでいそうなスケッチの歌が、むしろ捨ててしまった部分、扱っていない部分が、僕にはなんだか迫るように見えてきたのである。おもしろい読みの体験だった。重箱の隅をつつく感じになるのだけれども、上の5首で言えば、くぼみの形状は「石垣」から想像できはするけれども具体的には実はわからないということ、それを「鋭し」と判断する人から「鳥の声」がどれくらい離れたどれくらいの高さから聞こえてくるのかはわからないということ、「ねじり上げられ」の迫力は伝わっても「ふたつまとめて」と言ったときの形状や色の細部はなかなか見えにくいということ、水鳥が浮き上がる「まで」のその時間の幅はわからないということ、「鯉たち」が具体的には何匹なのかわからないということ。もちろん、歌の要はそこにはなく、そんなことはこれらの歌を読むことにおいておそらく無視できることで、あるいは無視していることさえ忘れて読者それぞれが勝手に補って読んでいるはずだし、そもそもあらゆる短歌において僕たちはそういうふうに、〈勝手に〉読んでいるはずである。しかし「オン・ザ・ロード」のスケッチの歌は、その〈勝手に〉を意識させるのだった。描かれていないところがむしろ目立った。この連作は、なにかそういった、「言葉」とかそれを「読む」といったことの根本、あるいは主観とか客観とか実感とかいったことの根本を、歌の向こう側につねにちらつかせて、それへの思考を促すところがあるように僕には思えるのだ。

 

今日の一首は、だから、「オン・ザ・ロード」のなかでも異質に思えた。この腕時計は変だ。実際の腕時計が狂い始めたというより、主体がごく主観的に認識した腕時計、あるいは主体にとって「腕時計」という語よって象徴されうるような何か、というふうに読める。この人だかりがどこの何に集まった「人だかり」なのか、なぜそこに分け入っていくのか、「ゆるく」とはどういうことか、わからない。上に記したような意味での「現実の具体の細部」も見えない。抽象度の高い歌だ。しかしこの歌においては、むしろそのわからなさは、「短歌的な読みどころ」として、むしろフォーカスを当てやすく、読者の恣意によっては隠蔽されえないものだ。僕が上に記したわからなさとはまるで異なるもの。腕時計が狂いはじめる、ということの意味や象徴を捕まえたとき、そういったあらゆる「わからない」や曖昧な点は、具体的な景を越えて、スケッチを超えて、「私の喜怒哀楽」(それはやはり見えないけれど)から遠くないものとして集約され得る。

 

それが狂い始める。やがてこの主体は「人だかり」に分け入る。狂ったそれと、文体や語彙から照らすと、「分け入りつ」と自覚的・自発的に入っていくさまを見せながらも、主体はやがてそこに溶け込んでしまうように僕には思える。そしておそらく、それは狂ったままだ。「私」が消えていく。その「私」のありようは、あるいは連作全体のありようを象徴している。しかし、それを象徴するこの歌自体はどうやら、連作自体がこれでもかと見せているその「スケッチ」の構造をとっていない。