いろいろなときにあなたを思うだろう庭には秋の花が来ている

永田紅『春の顕微鏡』(青磁社:2018年)


 

「雪が溶けたら何になるか」という問いに対する、理科的な正解が「水になる」で、国語的な正解が「春になる」だとする胡散臭い言説があるけれど、それでいうと完全に国語的な正解が用いられているのがこの歌の下句だ。話の順番としては秋になったから秋の花が咲くわけだけど、この下句はまるでまず秋の花の訪れがあり、それがエスカレートしていって秋になるかのようだ。そして、本来は「来る」ものではない花に対して渡り鳥やめずらしい蝶でも発見したかのような言いかた。科学的な事実からはぐれて主観的な認識を追うことがこの歌の詩情になっているし、感情の張りを表現しているところでもある。
下句のそういった修辞の細やかさに対して、あまりに大づかみで雑なのが上句だ。何も言っていないも同然の「いろいろなとき」ではふつう歌にならない。セオリーとしては具体的で細かい要素をひとつ入れなくてはならないのではないか。セオリーに反することを逆手にとるような表現もあるけれど、掲出歌はそこには属さないように思う。

 

いろんな人がいろんなことを思ってる角川短歌十二月号/斉藤斎藤

 

たとえば掲出歌と似たような「いろいろな/いろんな」「思い」が使われたこの歌は、言外に「いいですか、あえてわざと雑な言いかたをしますよ」と念を押している。そしてその「あえて」「わざと」の部分が読み解くときのフックになる。一冊の雑誌に詰まっている多様性に対する敬意と批判の微妙なバランスが読みとれたり、あるいは作者の気分、精神状態を測るものさしにもなるだろう。だけど、掲出歌はこういった逆説的な用法ではなく、ほんとうに素直に「いろいろなとき」と言っているように、そしてどういうわけかそれが成功しているようにみえる。

 

永田紅の最新歌集『春の顕微鏡』は子どものような歌集だった。恋愛し、研究し、慣れぬ土地で働き、何人もの親族を看取り、結婚し、教壇に立ち、歌集のなかで作者は立派な大人がするべきさまざまなことをきちんとこなしているのに、どうしても「子どもが大人のふりをしている」という印象をぬぐえなかったのは、ひとつにはこの歌集のなかで作者はほかのなによりも「娘」として振る舞っている、という理由が大きいと思う。母親である河野裕子を看病し、のちに亡くすことは、この歌集のなかで起こるもっとも大きな出来事である。だから、一時的に子どもに退行するような歌、

 

母の辺で過ごす七月八月は終わらないでほしい夏休みなり

 

こういった歌が多い理由はわかるのだけど、「子ども」を感じるのはこういう歌にかぎらない。立場として「娘」であることを仮に離れてもこの人は子どもなのではないかと感じさせられるのは次のような歌からである。

 

大事な人はみな年上でこの庭に草の実つけて取り残されむ
脂汗の冷えて寒気に変わりゆく 私の殺したマウスを思う
眠ってしまいし時間悔いつつ冷蔵庫あければ林檎つやつやとせり

 

一首目の末っ子っぽさ。二首目、体が苦しいときに自分の悪事を思い出してしまうこの感じ、因果が一対一対応しているという発想のシンプルさと思い込みのつよさは子ども特有のものではないだろうか。三首目には現実逃避がある。冷蔵庫のなかでは時間の進み方は遅く、現に林檎は腐らずにつやつやとしている。そこにアクセスすることで自分が眠ってしまった時間もなかったことにしようとしているようでもある。いちいちチャーミングな考えの甘さである。「馴れぬ齢」への開き直りすら感じさせられる。馴れることをついにあきらめたのだと。
この歌集に示されているのは「悪い大人はいない」という世界観である。作者がほんとうは子どもではないからには、その世界観は意思的に選び取られたものだ。話が通じない相手が想定されておらず、読者として善良さを求められているような息苦しい気持ちになる部分もあるのだけど、掲出歌の魅力もまたその世界観の延長線上にあるのだと思う。「いろいろなとき」は手放しだ。だれかの手がかならず受けとめてくれることを信じて目をつぶったまま倒れこむような捨て身っぽさがある。その無謀さに目がくらんだ読者がこの「いろいろ」をなにか歌の柱のように錯覚し、それによって歌が動きだすのも、ある種の逆説的な用法なのかもしれない。「思うだろう」と「庭」のあいだはかるく切れつつ複数の細い線でつながっていて、秋の庭のイメージががらんどうな上句に逆流する。上句と下句が重なりあうとき、「思う」という能動性と、花が「来る」という受動性のあいだにいったん齟齬が生まれるけれど、花が「来る」というのはもともとずらされている表現であり、そのずれが戻ろうとする作用が「思う」と連動する。すべての要素が振動しながらぴたっと一ヶ所に収まるような感触がある。
動く歌は豊かだ。読み直すたびに歌のなかで心と庭が重なり、「いろいろなとき」に季節のめぐりの色がついていく。「思うだろう」の「思う」ことは能動的な行為でありつつ、庭に去来する類のものでもあるのだと思う。