染野太朗


不自由に生まれたかったカーテンの卵弾けて蜘蛛が溢れる

鍋倉悠那「いくじなし」(「九大短歌」第八号、2018年)

 


 

「いくじなし」は14首からなる。

 

「不自由に生まれたかった」と言った瞬間にあちこちから「本当に不自由な人に対してそれは不謹慎、失礼」といったようなたとえばリプライの類いが飛んでくるのかもしれないな、と思う(……そのように思ってしまうというのはつまりどういうことなのか)。そして、自分が自由であるか不自由であるかの判断を誰かに何かに明け渡すわけにはいかないな、と思う。

 

「不自由に生まれたかった」と言う以上、この人は自分が自由であるということを感じている、あるいは、頭では理解しているのだろう。けれどもその自由よりも今は「不自由」を求めている。不自由に「生まれたかった」と、運命としての、そもそも備わっているものとしての「不自由」を求めている。あるいは「不自由」を克服した上で「自由」を得たい、ということだろうか。「不自由に生まれたかった」は、自分が「自由」であるということを理解している人の言であるが、そのように今言いたくなるように感じている以上、その「自由」を相対化しており、場合によってはそれを足枷のように感じている。だとしたらつまりこの人は、自由ではない。「不自由に生まれたかった」は、「自分は自由である」と「自分は不自由である」という内容を同時に抱えうる。それとも、想像しにくくはあるけれど、「生まれる」という行為(というのも変だが)の際に不自由でいたかったということだろうか。

 

この二句までと三句以降をいかにかかわらせて読むか。それが見えそうで見えない。「溢れる」という語によって捉えられた蜘蛛の子のようすは、自由であるように見える。けれどもそれはカーテンにくっついていた卵の蜘蛛だから、屋内にいて、つまり人間から見れば、その自由は制限されているとも言える。ただ、蜘蛛を意思あるものとしてとらえたとして、蜘蛛が今自由を感じているかどうかはわからない。いずれにせよこの蜘蛛も、自由と不自由を、喩として同時に抱えうる存在だ。

 

「カーテンの卵」という言い方や、「弾けて蜘蛛が溢れる」と淡々と見つめるようすも気になる。あらかじめそこに卵があるのをわかっていたかのような言い方だ。わかっていてなぜそれを取り除かなかったのか。それをそのままにしておくということや部屋のなかで蜘蛛が溢れてしまうということは、この人に自由を感じさせることなのか、あるいは不自由を感じさせることなのか。

 

本来求められるはずなのは「自由」だがここでは「不自由」を求めている、というその反転は、心情の発露としてあまりにも単純で安っぽいような気もするけれど、三句以降が、そんなふうに「単純で安っぽい」とする僕の(読者の)価値判断を、またたくまに退ける。自分が自由であるか不自由であるかの判断を誰かに何かに明け渡すわけにはいかない、と宣言されているような気がする。

 

紫陽花と喋っただけの週末はハリガネムシになりたいや嘘
手のひらは蛙の一部に変質しぬめり愛しい今日デートなの
個性無く能力無くともぬらりひょん尊敬されてみたいぬらりひょん
十四の弟何故か大人びてじくじくと爛れる焼き林檎

/鍋倉悠那「いくじなし」