買い被られているようであり馬鹿にされているようでもある真冬の西瓜

東洋『青葉昏睡』(角川文化振興財団:2017年)


 

今は西瓜に頭を突っ込んで眠りたい 内側の赤をなだめるために/安川奈緒「玄関先の攻防」『MELOPHOBIA』
とれたての公務員からしぼりとる真冬の星の匂いの公務/笹井宏之

 

単純に夏が旬だというだけでなく、夏の象徴としてしばしば書かれるくらいに季節との結びつきがつよい西瓜は、冬という旬の真裏にいるだけでとおい旅をしてきた存在のようだ。しかし、実際には今日日あたりまえのように冬でもスーパーで西瓜は売られている。その異常さをかすかに咎めながら、同時にかすかに酔うような感覚、〈現代〉に感染していることへの淡い興奮は歌集全体から感じたことだけれど、この歌で西瓜を艶めかせている理由でもあるだろう。西瓜にせよあるいは公務員(に内在する星)にせよ、冬の外から冬に運ばれてきたものにはなにか人工的なきらめきが発生する。それはおそらく場違いの季節にいることと冬の冷気のイメージが希望的観測的に読み手のなかで結びつくからだ。希望的観測というのはこの場合「腐らない」ということである。「真冬の西瓜」と書きとめられるとき、この西瓜はただの西瓜でもありつつ、プラスティックのように朽ちないヴェールを纏うのだと思う。
掲出歌のぐらぐらとした四句目までの長い修辞には真冬の西瓜のそういった座りの悪さがあらわれているようだけれど、さて、この歌の謎は、買い被られ、馬鹿にされているのが誰なのか、ということだ。西瓜なのか作者なのか。最後に助詞を足して倒置を完成させるなら、「は」を置くべきなのか「に」を置くべきなのか、ということだ。
西瓜なのか。旬じゃない季節でも育つはずだ、そして売れるはずだ、と買い被られ、本来の生態を無視されるという点で馬鹿にされているのか。あるいは、作者が、季節外れの西瓜になにか足元をみられているように感じているということなのか。
買い被り、馬鹿にする。正当な評価を中心線にして、評価の水増しと割り引きの両側に揺れるというシンメトリックな構図からは、西瓜と作者の双方向性の関係を読みたくなる。しかし、この歌のポイントは、書かれていない第三者の関与だと思う。西瓜を買い被ったり馬鹿にしたりしているとしたら、それは作者ではなく、西瓜をつくったり売ったりしている人々である。作者に対しても同じことだ。経済システムを対岸に置いて西瓜と作者は同じ側にいる。西瓜が人間の頭部を連想させることもここではじめて思い出そう。〈買い被られること〉〈馬鹿にされること〉の裏腹は、作者と西瓜の立場を書き分けるわけではなく、両者を運命共同体のようにして推移していくものなのだろう。
なんだか同じ番組をみている視聴者同士のようだな、と思うけれど、そういえば歌集中で作者が感染している〈現代〉は、メディアの形であらわれることが多かったように思う。

 

 

新聞がこんなにたまり三日前の新聞に読む地球のくらさ/東洋
早朝のテレビの星座占いを引きずり歩むバス停までを
果てしなき草野であると思いしがどうやら柵に囲まれている
挑まねばならぬ言葉がお辞儀して墓標のような霜柱ふむ
段ボールに寝てもホテルに目覚めてもパンは口にて食むほかはなく

 

余談。まだ昨年出たばかりの歌集だけど、わたしが出会ったのは古書店だった。立ち読みでぱらっとひらいたページにたまたまあった〈宗教の誘いのようにやさしくてサプリメント売る日暮れのテレビ〉にやられて買ったものの著者のことはあまりわからず、この歌集からわかったことといえば、著者名が「トウヨウ」ではなく「アズマ・ヒロシ」であること、昭和十六年生まれで「音」短歌会所属であること、この歌集は第二歌集に当たることくらいの少ない情報だっただけど、あとがきが印象に残った。第一歌集『春の古書店』のあとがきに大島渚の言葉として引用した一文が大島渚の言葉ではなかったとのこと。それふつう間違えないだろう、と驚いてから、そういう不思議な勘違いって日常にわりとあることだな、と思いなおしたけれど、自分の第一歌集のあとがきではやっぱりふつう間違えないような気がする。そして「先月号の訂正」のようなノリで、八年を経た第二歌集のあとがきにそのお詫びを載せるのか。