勢ひのある白雲よ一色(ひといろ)のからだすみずみまでうごくなり

伊藤一彦「微傷」(「梁」95号、2018年)
※( )内はルビ

 


 

「微傷」は15首からなる。

 

この歌を一読してまず惹かれたのは下の句「からだすみずみまでうごくなり」だった。どれくらいの大きさのどのような形の雲なのかはわからないけれども、その雲の全体がスライムかなにかのようにもぞもぞと動いているところをまず想像した。端っこが薄くなって空に溶けてしまったりもしている。全体が左右や上下に動くということではなくて、ひとつの雲の部分部分がそれぞれに動いているような感じ。蠢いている、というイメージ。でも、その見方はちょっと違うのかもしれないとすぐに読み直した。「勢ひのある白雲」と言われたときに思い描くべきは、その全体が風に乗って進んで行くようすだろう。その場合でも、結果として雲の部分部分は動き得るけれど、初句からこのように大きくとらえているのならば、まずはあくまで全体をとらえての「勢ひ」を読むのがよいはず。僕がはじめにイメージした雲は、全体としての動きはあまりなく、細部が動いているもの。静止したままそんな動きをする雲はありえないはずだから、風に乗って全体が動きつつ、それに合わせて部分も動いている、というのが想像できる実景として妥当なものだとは思う。

 

対象が何であれ、「勢ひのある」は、物理的な動きそのものだけでなく、心情や雰囲気といったものを指す場合がある。そう考えると、この歌で雲の物理的な動きを直接に示しているのは下の句。だから僕の、雲の動きに対する読みは、主に「すみずみまでうごく」のほうに引っ張られるのだろうなと思う。

 

一首全体の、白雲をたたえるようなありよう、その認識や視線の先にある開放感も見所だけれど、しかし、とにかくまず「からだすみずみまでうごくなり」が僕には魅力的だった。主体が見上げた視線の先の雲と、主体の、そして読者の身体がごくシンプルに共鳴し得る。言葉を介して自分自身の身体を刺激されているように感じる。歌の中の雲の「からだ」が読者としての自分の身体に重なる。背景には広々とした青空が広がっている。この歌を読んだちょうど翌日、たまたま友人が「このあいだ宮崎に行ったのだけれども、宮崎の空は高いと思った。雲が高いところにある気がした」というように話すのを聞いた。伊藤一彦が宮崎在住であることを考えれば、この歌の空は、僕が想像し得るそれよりずっと高いものなのかもしれない、などということも思った。

 

勢ひのある白雲「よ」、という詠嘆も見逃せない。主体が自分の身体を、雲のほうへ空のほうへと、明るく投げ出すような感じが加わる。この一語がおそらく歌の中で、対象と主体自身(あるいは読者自身)との境目を淡くするきっかけになる。

 

そして大切なのは「一色の」。ここだけ主体の認識の力が強い。雲が「白」であることをとらえ直して、それが一色であることを言っている。それは「勢ひのある」や「すみずみまで」といった描写よりも、主体による認識、価値判断が含まれることをより強く感じさせる。そこから逆に照らして見えてくるのは、「一色」では必ずしもいられない自分や周囲の状況、ということになろうか。だからこそよりいっそう「一色」であることが際立って見えるわけだ。

 

「からだすみずみまでうごくなり」という下の句に身体をあずけるようにして読み、読者としての身体の充実を味わいながら、しかし「一色の」という語は、「一色」ではいられないという状態がいかなるものか、その身体の隅に想像を促す。「一色」ではいられない、という思いは、空や雲の側ではなく、「生活」「暮らし」と呼ばれるものの側にある。それらを振り返ってこその思いであるはずだ。すなわちそこには短くない時間が流れている。この一首は、「一色の」というたった一語による認識によって、時間的な奥行きを思いのほかゆたかに示しているように思う。