平岡直子


尽くすほど追いつめているだけなのか言葉はきみをすずらん畑

土岐友浩『Bootleg』(書肆侃侃房:2015年)


 

ピースの数が合っていないパズル、という印象の一首。ばらばらにして組み立て直せば筋の通った一文になるはずなのに、どの組み立て方をしてもピースがひとつ余ったり、あるいはひとつ足りなかったりする。組み立て直せる気配を残していることと、組み立て直すことの不可能性、そのあいだを読者に行き来させることがこの歌の駆動部だろう。
文の整合性をさておけば、一首を構成する要素から読みとれる歌意は難しくない。コミュニケーションによって煮詰まっていく関係性が描かれていて、結句に向かって言葉が〈尽くす〉ように、または〈追いつめ〉るようにも畳みかけられる。それを受け止める最後の〈すずらん畑〉の唐突さには、尽くし、追いつめた先でなにか壁を抜けたような広がりが感じられる。小さな花をたくさんつけるすずらんのイメージは口数の多さに釣りあうし、なによりすずらんは清楚なみために反して毒がつよいことで知られる花である。きれいだけど危険な花畑は、この歌の内容が読者を突き落とす場所としては過不足がない。
この歌の過不足は内容からではなく、接続から発生する。四句目の〈言葉は〉と〈きみを〉は歌意の上では上句に所属するもので、それぞれべつの位置に返る倒置である。補完するとたとえば「言葉は尽くすほどきみを追いつめているだけなのか」になるけれど、印象的でつよい動詞をずばっと先に出して、その他の部分を倒置として言い足していくスタイルはこの歌の内容に合っていると思う。倒置をメインに一首を読んだ場合、〈すずらん畑〉はどこの倒置でもないパーツとして持て余されることになるだろう。
だけど、これら〈言葉は〉と〈きみを〉は、うしろに置かれた〈すずらん畑〉によって倒置から剥がされるともいえる。この下句は「言葉はきみを〇〇」を独立した一文として成立させる日本語の構文を覚えている。ここを独立した文として読むためには〇〇の部分に要請されるのは名詞ではなく述語だけれど、都合のいいことに〈すずらん畑〉は名詞でありながら述語的な響きがある。吹雪く、潜る、続く、のように同じ音を重ねつつ二音目が濁るパターンが動詞に多いこと、推量などをあらわす助動詞の「らむ」が含まれていることは〈すずらん〉を動詞に擬態させるし、「ばたけ」は三句目の「だけ」の反響でもあるだろう。倒置を無視して上句、下句をそれぞれ独立した一文として読んだ場合、どちらも欠落の大きい不完全な文になる。
一首としての目鼻は揃っているのに、なぜかなにかが過剰である、あるいはなにかが足りない、という印象のあいだで振れつづけるこの歌は、短歌において一首の内容と長さが一致することの不自然さを暴いてくるようにも思う。一般的にはその不自然さはおもに歌の余韻の部分で処理されるけれど、掲出歌を構成する言葉のパーツっぽさは、一首から短歌的な余韻もカットしているようである。
土岐友浩の歌は語彙がミニマルで無駄が少なく、言葉が選び抜かれた形跡がある。その性質は、選択の根拠、価値観の表明として膨大な「選択されなかったもの」を背負っているというよりも、日本語として成立するためにぎりぎりの飛び石を置いているように感じられる。その飛び石は短歌の可動域を可視化しつつ、ほんのすこしずつ押し広げているのではないか。ダイナミックな作風だと思う。