染野太朗


コマーシャルのあひだに遠く遅れたるこのランナーの長きこの先

竹山広『空の空』(砂子屋書房、2007年)

 


 

11月11日(日)は「福岡マラソン2018」が開催された。だから、というわけでもないのだが、今日の一首。マラソンがどうということに限らず、僕はこの歌を年に何度も思い出す。いくら読んでもこの歌に含まれる心身や時間のすべてには触れられない感じがある。一首が同時にいくつもの映像や時間を含んでいて、それをいちどきに処理するのがむずかしく、結果として何度もこの一首を読み直す、くりかえし初句から結句までをなぞる、ということを僕はしてしまう。

 

テレビ画面が見える。その前に主体が座っている(寝ていてもいいけれど)。駅伝かマラソンの実況中継。解説の声その他、さまざまな音が聞こえる。沿道で応援する人や先導するバイクなども見える。そのランナーはすでに苦しそうなのかもしれない。遅れそうな予兆はすでにあったのかもしれない。CMが挿まれる。CMがいくつか続く。ふたたび中継が始まる。そのランナーが順位を下げている。「遠く」だから、かなり下げている。どんどん遅れていくのが見える。そして主体は「このランナーの長きこの先」ということを思っている。……といったところが、効率のよい言葉運びで描かれる。シンプルな構造なのに、情報量がやたらと多い。三句を中心に頻出するオの音、それを挟むように上下句に頻出するアの音、「遠く遅れ」「長きこの先」の「オク」「アキ」の音のくりかえし、「この」のくりかえし、といった音の構成が、韻律をかろやかに調える。歌に見えてくる具体はランナーの〈今〉のみなのだが、それが「コマーシャルのあひだに遠く遅れたる」という修飾によって、そもそもこれがテレビ中継であることがわかり、そのランナーのそれまでのようすも時間の幅をもって想像できる。そして注目はふたつの「この」という指示語。この語で、まさに〈今〉、主体がテレビ中継を観ているということの輪郭が濃くなる。テレビ中継(画面)に対する単なる客観描写ではなくなる。ランナーを見つめる主体の眼差しが浮き彫りになる。それによって、だから、テレビを観ている主体の姿そのものが読者に見えてくる。読者はテレビとその中のランナーだけでなく、主体の姿をも見ることになる。歌という画面の中にテレビと主体が見えてくる。「この」は、主体と対象の位置関係を示すという点において、それを発語した人そのものをも色濃く映すのである。そして「ランナーの」を経由した「長きこの先」によって、ランナーの前に長くつづくコースが見え、それによって読者は、実際のテレビ画面でどう映されているかはわからないけれども、ランナーの姿が画面の奥行きの中でどんどん小さくなっていくような映像まで想像することができるだろう。ランナーがこれからその長いコースに費やしていく時間の長さも見える。そして、その時間におけるランナーの苦しさが見える。その苦しさは、身体的な苦しさだけでなく、精神的な苦しさをも含み得る。ふたつのその苦しさが長くつづく。もっと言えば、ゴール(あるいはリタイア)をしたあとにもつづくであろう身体的な苦しさや精神的な苦しさをも見い出し得る。同じチームの仲間やコーチに対する思いまで「苦しみ」として見い出せる。この「長きこの先」は、実にさまざまな時間、体感、心情を含み得る。そのような措辞であるという点で、「~このランナーの」までの措辞とは性質を異にする。コースや時間の長さを物理的に示す「客観」と、主体による判断・想像(あるいは読者による読み)という「主観」が入り混じる。読者としてテレビと主体のみを見ていたはずなのに、それを保ったまま、急に主体の頭の中に入り込んでしまうような感じ。「長きこの先」において、だからこの一首は、途端に「言葉」だけになる。掛詞や比喩ではないが、多重の次元で意味を含む。「言葉」だからこその表現。

 

僕がこの歌を何度も思い出すのは、でも、シンプルな中にある上のような多重性、複雑さによってだけではない。「長きこの先」にうっすらとにじむ、その、主体自身の意識・心情への興味が尽きないからだ。「苦しみ」などとはひと言も言わず、「長きこの先」とのみ放り出すように言う主体は、ランナーとの心的距離をしっかりと取っていて、だから、残酷にそれを静観しているような感じにも読める。ランナーの「苦しみ」を読むのは、言わば読者の恣意だ。けれどもその「苦しみ」の存在を否定はできない。主体がその「苦しみ」を想像している、と読むことは可能だ。だとすれば、そのような「苦しみ」を想像する主体とは何か、ランナーに共感を寄せ得るような苦しみを主体も抱えている(いた)のではないか、と考えることも可能なはず。けれども同時に、もちろん、それは深読みに過ぎる、というブレーキが読者としての僕にかかる。竹山広という作者の、長崎の被爆体験にまつわる歌や歌業の全体を今日の一首に引き込んでいるつもりはまるでない。でもやはり、と思う。たったひとりのランナーを思ってさえ兆す「苦しみ」への眼差し、〈人間〉への視野の広い理解、といったことを思う。そういったものが、ほんのわずかに見えてしまうばかりに、そしてそれが「この」という眼差しにしか見えて来ないばかりに、だからこそ僕は長くこの歌にとどまってしまうのだと思う。