天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ

吉川宏志『燕麦』(砂子屋書房:2012年)


 

原発はやめてほしいという歌だ。それも、とてもとてもやめてほしいという歌だ。つよい主張を明快な言葉に乗せたこの歌には、読みがぶれる部分が一ヶ所だけある。結句の〈恥じぬ〉である。ここには二通りの読みかたがあり、助動詞の「ぬ」を完了と取るか、打ち消しと取るかで一首の表情は少々違ってくる。「恥じた」か「恥じない」か。一首の内容を大きく揺さぶるぶれではないけれど、四句目までの蛮勇に対してふと一歩下がるのが完了、ぐいっとさらにもう一歩踏み込むのが打ち消し、といったところ。
総合誌で発表された当時から話題を呼んだこの歌は、結句についてはなんとなく完了で取る読者が多かったような印象が残っている。歌人的なセンスで読むと完了のほうを選択することになるのはわかりつつ、打ち消しで読むのを否定する理由もまったくないことがずっと気になっていた。

卓上の本を夜更けに読みはじめ妻の挟みし栞を越えつ/吉川宏志
しらさぎが春の泥から脚を抜くしずかな力に別れゆきたり

どちらも第二歌集の『夜光』から。一首目は代表歌級の有名歌、この歌の生命線は最後の助動詞の「つ」である。二首目はわたしがとくに好きな歌だけれど、四句目の「しずかな力に」の助詞「に」にかかる負荷がこの歌の魅力そのものである。ここまで助詞・助動詞に繊細に神経を通す歌人が、掲出歌ほど力のこもった歌で、真逆の意味になりうる助動詞を放置するだろうか。

 

短歌の伝統的な「私性」というものに「恥じ」の感覚は深くかかわりがあると思う。一首の背後に「作者の顔」がみえるかどうかは、一首に恥じらいがあるかどうかが決定すると言ってもいい。たとえば、同じような(というのは乱暴にせよ)物語的な題材を扱っていても、石川美南の歌には私性があり、笹公人の歌にはそれが感じられないのは恥じの感覚の有無の差である。
そもそも定型に言葉を乗せるのは、短歌の声を借りて話すことである。掲出歌になぞらえて言うならば天皇にしゃべらせているようなものだ。そして、虎の威を借りたことを一首のどこかで恥じて一歩下がる姿勢をみせるとき、そこではじめて個人が際立つのだと思う。
そう考えると掲出歌には、短歌の仕組みをデフォルメした短歌、といった側面がある。あるメッセージ、仮にたとえば〈原発をやめよ〉を短歌定型という〈天皇の声〉で発言したのちに、それを〈恥じ〉て一歩下がることで、その落差に〈顔〉をみせる。こういった仕組みに乗せて数々の秀歌をつくってきたはずの吉川が、その仕組み自体を可視化するような一首をつくることはブラックボックスを開くことに等しいのではないか。まるで短歌そのものを恥じはじめ、そのなかでより直截的な表現が萌芽しているようでもある。
〈恥じぬ〉を完了として取る場合、そのためらいは一首の秀歌性を担保するほかに、内容に対する安全弁としても機能する。天皇と政治を接続するというあぶない橋をいったんは仄めかすものの、本気じゃないですよ、そこは渡らないですよ、と念を押す註としての役割である。
恥じることを恥じはじめる、という自己矛盾、歌のアイデンティティを揺るがすような割れ目が、結句を「恥じず」の意味で読む可能性に潜んでいるのではないかと想像してしまう。掲出歌はほんとうは自らの秀歌性のためのポーズや安全弁をこそ恥じているのではないか。