染野太朗


何故ああであつたか 神の沈黙は押し入つてくる扉閉めても

香川ヒサ「それぞれの夏」(角川「短歌」2018年10月号)

 


 

「それぞれの夏」は28首。

 

今日の一首のひとつ前に、

 

あぢさゐが白く乾きてゐたりけり終戦の日に正午の時報

 

とある。この「時報」には玉音放送があまりにもはっきりと重なるのだが、終戦の日「の」正午の時報、でなく「に」と言われると、そこに見え隠れしている〈作者〉の顔が妙に大きくなる。こまかなニュアンスの話で恐縮だが、「の」であれば、歌の装いの上では、淡々とした客観描写として歌の中に「終戦の日」「正午」「時報」という素材を置いているだけという感じになり、その語の連なりの平坦さに「玉音放送」という起伏を与えるのはあくまで読者側の意識(恣意)ということになるけれど、「に」だと、あらかじめ〈作者〉の側で「終戦の日」(あるいは「正午の時報」)を強調しているのが明らかになる、というか。この表現だと場合によっては「終戦の日にも正午の時報が聞こえるなんて」というような驚きさえニュアンスとして含み得る。歌の装いとしては「の」でも「に」でも大差ないように思えるけれど、あえて「の」と対比して考えると、そんなふうに読める。

 

なぜこんなことを言ったかと言うと、香川の歌を読んでいると、箴言風で、誰にも共通する真実・真理・発見の類いが歌に表出しているような印象を受けてしまうけれど、そのような見た目の上での印象とは裏腹に、あまりにも強烈な〈作者〉の存在、その〈作者〉による対象や真理への介入、つまり主観が感じられることがあるから。この「に」がその象徴に思えたのである。

 

今日の一首の直後には、

 

戦前に歌を詠む人戦後にもその最中にも歌を詠む人
敗戦後七十三年そのままの後の祭り的時間の意識

 

と二首続く。深入りはしないが、一首目についてだけ言っておくと、「歌人」という存在への批評を読者に喚起しそうだけれども、装いはあくまで客観的事実の提示、羅列になっている。そして戦前戦中戦後のすべてを包括して言っている。だから箴言風、真理を突いている感じ、メタ的な感じをかもしだす。けれどもそれを装いとして選び取っているという点が〈作者〉の顔をつよく照らす。ここに歌人への批評を読んでしまうのだとしたら、それは客観性を担保したかのような描写によるのではなく、その文体を選び取った〈作者〉に刺激されたことによるものであるような気がする。

 

今日の一首の「ああ」は、前後の歌を参照すると、先の戦争の発端やプロセスや終戦にまつわる、おそらくそのすべてを指しているのであろうし、例えば遠藤周作の『沈黙』が扱った「隠れキリシタンがいかなる拷問を受けてもそれに対して救いの手を差し伸べなかった(ように見える)神」の、人間にとっての理不尽(理不尽とは必ずしも言えない、その先の思考と感情を突きつめる、というのがあの『沈黙』であるけれども)なありようを踏まえて、神と対話をしようがしまいが結局神は沈黙したままなのだ、大いなるものによるわかりやすい救いはついに訪れないのだ、あの戦争への答えもないのだ、というふうに言っていると読める。「扉閉めても」というところに特に、むしろ「神」そのものの存在を無化してしまうような迫力がある。

 

さて、しかし、立ち止まって考えたいのはその「扉閉めても」。このように言われて、やはりこの一首は箴言風のたたずまい、真理を突いたかのようなたたずまいを見せる。「扉を開ける/閉める」という対比と「ても」の機能により、歌が扉の「開/閉」のいずれをも包み込む。つまり、状況の全体を包括する。しかもそれが、神の沈黙「は」、という一般化を伴って現れる。だから、真理を突いているように見える。結果として「何故ああであつたか」を起点とする思考がむなしくさえ見えてくる。もちろん「押し入つてくる」を中心に息苦しさや葛藤は読み取れるけれども、それは歌の主体にとってのそれであって、読者としての僕の手に残ったのは「虚無」に近い。開けても閉めても、どうあがいたって「沈黙」が広がってしまうのだ。

 

ここで注目したいのは、しかし、「扉閉めても」がいかなる内容を指すのか、実はよくわからないということ。上で僕は「対話をやめる」、すなわち、思考しようがしまいが結果的にそこには救いや答えがもたらされない(そればかりか、理不尽や苦しみが絶対的に残る)、というふうに解釈したが、そもそも「扉閉めても」は喩であって、僕のような解釈が妥当かどうかはついにわからない。にもかかわらず、歌の構造上、特に「扉閉めても」の一語によって、一首は真理を突いたかのような表情をしている。これが真理なのだ、というメタメッセージが、わかりやすい形で露わになっている。そこに引きずり込まれる。

 

本当に「扉閉めても」だったのか。はじめから、閉まっていたのではないか。そもそも閉まっているからこそ、「神」が「沈黙」していたのではないか。問いかけや対話はまっとうに行なわれていたのか。本当にそれは「問いかけ」であり、「対話」であったのか。「問いかけ」「対話」とは何なのか。本当にそれは、それ以前に開いていたのか。

 

歌そのものへの読みを超えてここまで踏み込んだのは、この一首が怖ろしかったから。歌に現れた(強靭そうに見える)思考が、むしろ読者としての自分を思考停止に誘うように思えたから。真理を突くようなたたずまいが、場合によっては、読む者の思考停止、あるいは虚無を誘発する。

 

始めよう途方に暮れるところからなんて途方に暮れず言ふ人

/香川ヒサ「それぞれの夏」