平岡直子


くちばしを開けてチョコボールを食べる 机をすべってゆく日のひかり

永井祐『日本の中でたのしく暮らす』(BookPark:2012年)


 

〈くちばしを開けて〉というところがおもしろい。前提として、駄菓子のチョコボールの箱のフラップ部分は黄色い鳥のくちばしに見立てられている。つまり、〈くちばしを開け〉るというのはチョコボールの箱を開くということで、そこがくちばしだという発想自体は作者のではなく森永製菓のものである。それが短歌のなかでぐっとおもしろくみえるのは、ものを食べるときには自分の口も開かなくてはいけないからで、〈くちばし〉を自分の口のようにも錯覚させるからだと思う。チョコボールのちまちました印象は、自分で自分に餌を与えているような感覚にもつながるかもしれない。この歌のいいところは、最終的にはくちばしを開けるという描写がチョコボールの箱に返されるところだ。人間のくちばしである可能性はチョコボールの箱の影から出てこない。〈くちばし〉が示すものが枝分かれするようにみえても、どの枝もすぐに行き止まりがみえていて、幹がはっきりしている。〈くちばしを開けてチョコボールを食べる〉が、〈くちばしを開けてチョコボールを食べる〉ことだけを言っていて、その描写がじかに心象風景を背負ったりしないのがこの歌の豊かさである。描写がじかに心象風景を背負ってしまうと描写と心象との最大公約数が読みの限界になるので、それぞれの元の数値からはだいぶ減ってしまう。

君は君の僕には僕の考えのようなもの チェックの服で寝る
寒いと嫌なことの嫌さが倍になる気がする動物の番組を見る

それはたとえばこういった歌にもいえることで、一首目の「チェック」という柄にはそれぞれの考えを持ちつつ関わる「君」と「僕」の交差を読むことができるし、二首目の「動物の番組」には、寒さによって動きが鈍くなる性質の動物っぽさは重なっているだろう。それらはもしかしたらそれぞれの歌の生命線かもしれず、仮に一首目が「花柄の服」、二首目が「鉄道の番組」だったりしたら歌として成り立っていなかったかもしれない。しかし、どちらも喩としてわざわざ空中に準備したわけではなく、地面にたまたま置かれていた言葉の近くを通っただけのようにみえる。
現実ベースの描写に準拠しつつ切りとり方にものを言わせるという性質は葛原妙子を連想するのだけど、他界との接点をフレームのなかに入れることによって不穏さをまとわせる葛原とは対称的に、永井の歌は他界との接点を見切れさせることによって言葉を現実に囲い込むのだと思う。

 

ひかりが机を「すべっていく」というすこし変わった言いかたから感じとれるのは、机が傾いているという感覚である。上句でチョコボールを出すときの箱の傾きや、箱の内側をチョコボールがすべる感触が下句にそっと渡されているのを感じるとき、チョコボールの箱と机、顔と太陽のあいだにぐらぐらと相似を感じる。