染野太朗


したたかにその身を打ちて自販機の底に気絶の缶コーヒー取る

中根誠「自販機」(「歌壇」2018年12月号)

 


 

「自販機」は12首の連作。

 

自販機の下に散らばる小銭などないなあしきりに噺家言へど
自販機のボトルを補充する人の手に銭を置き麦茶をもらふ
急須でいれたやうなにごりの旨みとか何度も振つて立ちながら飲む
部屋の灯りつけて鞄に温む茶を探り出すときひとりの秋ぞ

 

一首目、自販機の下から小銭を拾う、というような話は落語がどうということに限らずいくらでも聞いたり目にしたりしたことはあるけれど、たしかに、自分が拾ったことというのはない気がする。じゃああの話はなんなのか。「ないなあ」の唐突なつぶやきの口調にあかるくユーモアが宿る。二首目、この人、その自販機を諦めたり補充の終わりを待ったりしなかったんだな、と思う。と思うと、ここにわずかに主体の個性がにじむ。「手に銭を」あたりの丁寧な動作にあたたかみを感じなくはないけれど、「補充する人」の説明や小銭と麦茶との交換のようすは、描写の精確さや動きの順序を前面に出しており、冗長な感じさえあって、しかしその機械的な感じは妙に心地よい。三首目、「立ちながら飲む」が「急須でいれたやうなにごり」をちょっと皮肉る。四首目、部屋の灯りを自分でつけるあの感じとペットボトルのお茶の温かさが「ひとり」であることを自覚させる。「探り出す」という表現に手と鞄(の中身)の動きが見える。

 

自販機にまつわるあれこれが手堅い統語のもとで描かれておもしろいのだが、読みながら一番に思ったのは、自販機というのはこちらの身体をいろいろに刺激するのだな、ということだった。缶コーヒー1本を買うためにもまず、財布を取り出す。商品を選んできょろきょろとする。ちょっと見上げたりもする。財布を開ける、広げる。小銭を探る、取り出す。あるいは、電子マネーのカードやスマホを準備する。ボトルや缶の見本、広告など、いろどりはけっこう豊かだ。ボタンを押す。カードやスマホをかざす。がこんと音をたてて出てくる。屈む。取り出し口をひらく。缶をつかむ。つかむ、といっても缶がへんな角度で引っかかっている場合もあるし、取り出し口はさほど広くもないから、つまむような感じでもある。力を入れて、手・指をわりと器用に使わなければならない。引っ張り出す。背中を伸ばす。ふたたび歩き出す。特に「屈む」と「取り出す」あたりを中心に、けっこう体に負担がかかる。だからこそ、高さが低かったりコインの投入口に工夫があったりする自販機も登場しているわけだ。

 

それで今日の一首。あの瞬間というのはなかなか迫力があって、けっこうな音がする。自販機自体が揺れるような感じさえある。「その身を打ちて」を強調する語が前にも後にも並ぶ。「したたかに」はもちろんだが、「底に」は落ちる高さや無惨を強調するように思うし、さらに「気絶の」とまで擬人化して言う。しかし大げさ、デフォルメとは思わない。それくらいの勢いがある。結句、助詞抜きの「取る」も、ぶっきらぼうで、「したたかに」以下の迫力を削がない。

 

しゃがんで自販機の下に手を伸ばし、小銭を探る。補充の動き。何度も振る。キャップを外す。口をすぼめる。立ちながら飲む。キャップを閉める。鞄の重さ。お茶の温かさ。鞄からごそごそと取り出す動作。そして、「したたかにその身を打ちて」「気絶の」缶コーヒー。……身体性を意識して詠んだ、というふうに作者の技術として読むのはむしろ誤りなのではないかと思う。今日の一首の擬人化も当然のことのように思えてくる。自販機それ自体が、ついでに言えばそこで売られるペットボトルや缶そのものも、人に、独特の、思いのほか複雑な身体の動きを要求するのだと思う。「自動販売機」の「自動」はついに(ついに、というのも恥ずかしくなるくらい)、その語感も含めて、アナログの謂でしかないわけだ。ちょっとずれるのだが、モノが身体(とその動き)をデザインする、というようなことも意識させてくれる歌だった。