体重は二〇グラムで生きてゐる雀ねむの枝(え)にゐて揺れやまず

馬場あき子『あさげゆふげ』(短歌研究社:2018年)


 

雀の体重が二〇グラム程度だというのは図鑑的な知識である(だいたい合ってることは検索して確かめました)。実際に生きて動いている雀をみるときに人は「小さい」とか「お、ふくらんだ」とか「茶色だ」とか思うことはあっても、「約二〇グラム」とは感じないだろう。特定の雀、目の前の雀についての描写ではなく、雀という生き物についての一般的な知識がこの歌では述べられる。
無機的なはずの知識が一首のなかに奇妙に生命力を描きだすのは、その知識が歌のなかに引用されるときにべつのニュアンスを帯びるからだ。すなわち、歌に書かれた「体重が二〇グラムである」という情報は、ほとんど自動的に「体重が四十キログラムの人間である作者」との比較を意味する。その延長線上に、体重が五十キログラムだったり百二十キログラムだったりする読者との比較もあるだろう。人間の体重を基準にした〈二〇グラム〉はただの数値ではなく、その小ささへの驚きや、生命力の張りを感じさせる装置として機能する。
そのダイナミズムは〈二〇グラムで生きてゐる〉の助詞の意味の揺れにも見いだすことができる。この部分を「雀は二〇グラムである。かつ、雀は生きている」と読む場合に、対極にあるのは「二〇グラムであり、かつ死んでいる」雀である。しかし、ここの助詞の「で」は「二〇グラムの生き物として、その二〇グラム性を生きている」というようにも読めるし、その場合に対極に置かれるのは「体重は四〇キログラムで、四〇キロの身体を生きている作者自身」になるだろう。雀をカーブミラーのようにして、斜めの位置にある「死」を照らしている歌だともいえる。
この二〇グラムの重みを拡大するものとして、一首の韻律の作用を挙げることもできる。上句には「体重」と「二〇」の脚韻があり、直後にその脚韻を引きずる小さなこだまのように「グラム」と「ゐる」がu音を残す。下句では「雀」と「ねむの枝(え)」のセットのあとに「ゐて」「揺れ」が小刻みにe音を繰り返す。一首のなかには大小さまざまな脚韻が含まれていて、それらは視覚的に描写されている「揺れやまない枝」と同じ動きをしているように感じられる。

 

馬場あき子は役割に徹する作者だという印象がつよい。それも生涯を通したひとつの役割などではなく、その場その場で非連続的な役割を求められ、応えているようにみえるのは馬場が女だからだと思う。女が演じる、あるいは演じさせられる役割にもいろいろあるけれど、たとえば感情を大ぶりに表出させる与謝野晶子型の動的な役割に対して、馬場が演じるのは静的な役割のように思う。型との軋轢が表現になるのではなく、型に入りにいくことが表現を振動させるタイプの。

 

そして誰もゐなくなつたと洒落ながらむかで殺しし犯人はわれ/馬場あき子

 

掲出歌と同じく最新歌集に収録されている一首。アガサ・クリスティーのミステリ小説『そして誰もいなくなった』のタイトルを踏まえつつややおどけた表情をみせるこの歌は、短歌というものにとっての作者の役割について考えさせる歌でもある。
この歌ではまず、日本語では「誰もいない」という場合の「誰も」に発話者は含まれないという特性ゆえの「われ」が、「And Then There Were None」と「そして誰もいなくなった」のあいだの齟齬として指されている。その上で、ミステリでいう「犯人」と「探偵」を兼任するのが歌の「私」であるということが示される。この兼任について自覚的なところが、たとえば掲出歌において、「雀」についてデジタルな情報を提示しながら、同時に生命力をみせる、という二重性を可能にするのだと思う。

 

ふたりゐてその一人ふと死にたれば検視の現場となるわが部屋は/馬場あき子

 

サスペンス的な臨場感はあるけれど感情的な臨場感は排されているこの歌が、歌集中で「そして誰もゐなくなつた」の歌の数十ページ後にあらわれるのは結果論である。これはミステリ小説の引用や導入ではなく、「別れ」と題された挽歌連作の巻頭歌である。そして、その文脈を考えると、役割への徹底が慄然とするほど窺える一首だと思う。